「背教とよみがえり:ペテロとユダ」ヨハネ13:1~2、37~38
- 2025年11月16日
- 読了時間: 13分
説教者:ラルフ・スミス牧師
ヨハネ13:1~2、37~38
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。…
ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
今日はこの二つの箇所を考えるために四つの観点から見てみようと思う。
1、イエス様と十二弟子
明白で簡単なことであるが、イエスに十二弟子がいた。 十二弟子は新しいイスラエルの土台である。旧約聖書の教えから続いているので、旧約聖書を理解するためにイエス様と弟子たちのことを理解しなければならないし、イエス様と弟子たちのことを理解するために旧約聖書を理解しなければならない。
2、イエス様とモーセ
これまでイエス様と申命記についてずっと学んできたことであるが、イエス様とモーセの話も明白でよく知られていると思う。
【申命記18:15】あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私(モーセ)のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
ペテロは使徒の働き3章でこの箇所を引用して、このみことばがイエス様において成就されたと言う。神が遣わした旧約聖書のすべての預言者はモーセのような預言者であるが、その深い意味はモーセはイエス様を表す雛形であるということだ。イエス様がモーセのような預言者であることをおほえておいてほしい。
3、イエス様と十二弟子
今日読んだヨハネ13章は17章までの一つの大きな段落の最初の部分である。モーセのような預言者が申命記を思いながら弟子たちに話している。申命記はイエス様の頭の中にあって、弟子たちに話している。
申命記はモーセが死ぬ前に最後にイスラエルに話したかったことを話しているモーセの最後の言葉である。
イエス様もこの世を去る時が来たことを知っておられたので、ご自分の者たちを最後まで愛されて話したのである。最後まで愛されたとは最後まで教えたということである。それが13章から始まって17章はイエス様の祈りである。モーセは同じことをやっていた。モーセも自分が死ななければならないことがわかって、自分の子どものように愛しているイスラエルに最後の言葉を語ったのが申命記である。じつはモーセは創世記のヤコブの真似をしていた。ヤコブも自分が死ななければならないことがわかった時に、十二人の息子たち、つまりイスラエルの十二部族のかしらたちに祝福の言葉を語ったのである。その中には複雑なことが含まれていて、シメオンとレビは祝福よりさばきのような雰囲気があるが、歴史の中で神様はそのさばきを祝福に変えられた。レビは散らされるが、祭司の部族になってイスラエル全体の中で神様に仕える特別な部族になった。元々シメオンとレビは人殺しなのでのろわれたが神の恵みによって祝福に変えられた。ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデも、死ぬ前に最後に大切な言葉を語っている。
イエス様も同じように、最後にご自分の愛している者たち、つまり十二弟子に(ユダは途中で出てしまうが)愛をもって語ってくださった。
ヨハネ13章から17章までの中に申命記を指しているところがたくさんある。申命記的な表現もたくさん使う。だからイエス様はモーセの最後のことばを認識して話していることがよくわかる。
例えば、申命記の中で、神を愛して神の命令を守るという時、律法的な意味ではない。神様がイスラエルを愛しているので道を教えてくださるための命令を与えるのである。ヘブル語のトーラーということばが使われているが、日本語で律法と翻訳されることが多い。しかし教えと訳す方が良いと思う。律法的に考えるのではなくて、天の父からの愛の教えである。モーセは、イスラエルがその教えを愛の教えとして受け入れて、愛をもってその教えに従うように励ましている。
イエス様は弟子たちを目の前にして最後まで愛された、とヨハネに書かれているが、じつにその通りである。イエス様の愛は、モーセの教えを覚えて、ヤハウェの愛を覚えて、喜んで神の命令に従う愛である。
4、ペテロとユダ
前回私たちは足を洗うことについて話したが、不思議に感じることの一つは、イスカリオテのユダはそこにいることである。イエス様はご自分を裏切るものがだれか知っておられることはすでにヨハネ6章に書いてあるので、ユダがご自分を裏切ることをイエス様はわかっていて、その上でユダの足も洗ってくださった。サタンはすでにユダの心にイエス様を裏切る思いを入れていた。ユダはイエス様の前に座って足を洗ってもらっている時に、すでにイエス様を裏切るという思いを持っていた。不思議であるが、神様は恵み深いと思う。
イスカリオテのユダは最初からイエス様を信じていなかったのではないと私は思う。そんなはずはない。
ユダが失われてから、『彼の務めをほかの人が取るように。(詩篇109:8)』という詩篇をペテロが引用して、だれか一人をイエス様の復活の証人として加えなければならないと言った箇所がある(使徒の働き1章)。そこにこう書かれている。
【使徒の働き1:22】すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。
もともと十二弟子たちが選ばれたのは、バプテスマのヨハネの時からイエス様の弟子だった人たちだ。つまりイスカリオテのユダはバプテスマのヨハネの「神の御国が近づいたから悔い改めなさい」と言うのを聞いて、バプテスマのヨハネに従って、そのあとでイエス様に従った。最初から不信仰で最初から裏切る思いがあったのではないと思う。
いつその思いが変わったか、なぜその思いが変わったか、聖書の中に明白に書かれていないが、どこかではっきり変わってしまった。恐らく、イエス様が王になるのではなくて十字架に行くことがわかったからではないかと思う。
ピリピのカイサリアで、イエス様は弟子たちにこのように尋ねた。
【マタイ16:13~17、21】さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。…
その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
これはイエス様が十字架にいく六ヶ月前のことである。 イエス様のことを「生ける神の子キリストです」とペテロが告白したら、イエス様は初めてご自分が苦しみを受けて殺されて、三日後によみがえることを話された。
じつはヨハネ1章で、イエス様がバプテスマを受けて宣教を開始した頃にナタナエルに会って、ナタナエルはイエス様のことを「神の子、イスラエルの王」と呼んだのだが、その信仰はまだ十分に成長していなかった。だからイエス様とともに歩んで、信仰も試されなければならなかった。
弟子たちの信仰が十分に成長したところでペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白したので、イエス様は初めて十字架の話をしたのである。
それを聞いたイスカリオテのユダはもしかしたら「ちょっと待ってください。私は十字架に行くメシアに従ったつもりではなかった。御国を期待していた。そこで偉い弟子になってキリストの王座の右か左に座るつもりだった。」と思ったかもしれない。弟子たちの未熟な理解では、イエス様がメシアとしてダビデの王国をもう一度築き上げて、自分たちはその国で偉くなると思っていたかもしれない。もしイスカリオテのユダもそのように思っていたとしたら、十字架の話が出て、あなたがたも自分の十字架を負ってついて来なければならないと言われたら、どう思っただろうか。イエス様が十字架に行かなければならないにしても、私まで十字架を負ってイエス様に従っていかなければならないのか、と思ったかもしれない。
このようにイエス様に対する信仰が変わってしまったかもしれない。
そして変わった時にユダが弟子たちの中で財布を持つ者になった。それほど信頼される弟子だった。 ユダは尊敬されていた。財布を持つとは正直で完全に正しくやってくれる人であった。ユダは決して不信仰の者には見えなかった。
弟子たちはイエス様に怒られて、二人ずつ一緒に旅をして、説教をして、奇跡も行った。その時にユダも一緒だった。でも弟子たちの中でなぜユダだけが奇跡を行なっていないのか、と言われたりはしていない。彼は他の弟子たちと同じように奇跡を行なったり説教したりイエス様の福音を伝えたりしていたが、いつの間にかお金を盗むようになってしまった。
イエス様が十字架に行く六日前に、ラザロの姉妹マリアが高い香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足を拭った(ヨハネ12章)。
ヨハネの福音書12章ではユダがそれに文句を言ったと書いてある。高価な油を使っていたからだ。ところがマルコの福音書14章には、この女のしたことを見て弟子たちが憤慨していたと書いてある。恐らく、想像であるが、尊敬しているユダが文句を言ったので、他の弟子たちも一緒になって文句を言ってしまったではないかと思う。 ユダがイエス様を裏切ってお金を盗む行為は、サタンがユダの心に入る前からあった。イエス様よりお金が大事だった。
【マタイ26:14~15】そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
だからユダは銀貨三十枚でイエス様を裏切ってしまう。イエス様は、「だれでも二人の主人に仕えることはできない。神にも富にも仕えることはできない(マタイ6:24)。と言われたことを思い出す。
申命記のイスラエルとヨハネの福音書の話につながりはあるのだろうか。その問いには「はい、はっきりあります」と答える。
モーセが、イスラエルが神を裏切って偶像礼拝に落ちることははっきり預言されている。申命記28章、30章、31章にもある。モーセは裏切るということばは使っていないかもしれないが、ポイントはそこにある。イスラエルは神を裏切って信仰から離れてしまうのである。そしてさばかれる。バビロンという国の名前は出ないが、約束の地から追い出されると書いてある。それは死ぬということである。自分の罪のために死ななければならない。
ただし、悔い改めて戻るという話もする。キュロス王がBC539年にバビロン帝国を倒して、エズラたちがユダに戻ることを宣言して実際にユダヤ人は戻ってきた。これはよみがえりである。死んだユダヤ人がよみがえってカナンに戻って新しいスタートをした。BC516年に神殿が破壊されてからちょうど70年後に神殿を建て直して新しいイスラエルとしてスタートした。これはモーセの預言通り死ななければならないが、よみがえるということである。
ところがイスカリオテのユダのストーリーを読むと、彼はよみがえらない。サタンがイスカリオテのユダの心に入ってユダが罪を犯してから、自分がどんなにひどい罪を犯したかが分かっても、悔い改めたのではなくてただ苦しんで首をつって死んでしまった。暗くて悲しくて、最後はとんでもない悲劇である。モーセの話より厳しい終わり方。神様を裏切って偶像礼拝をしてしまったイスラエルは、悔い改めて戻ることができた。しかしイエス様を裏切ったユダは悔い改めずにただ悲しんで死んで終わり。これがヨハネが私たちに与えようとしている印象なのだろうか。いや、そうではない。13章を気をつけて読むと、イスカリオテのユダの話、ペテロの話、イスカリオテのユダの話、ペテロの話の順番になっている。ユダとペテロを比べて、一緒に考えるように書いてある。イエス様は、ユダが裏切ることを預言しただけではない。ペテロが「あなたと一緒ならいのちを捨てる」と言ったときに、イエス様は「まことに、まことに、(アーメン、アーメン)」と非常に強調する言い方をして、「鶏が鳴く前にあなたは私を三度知らないと言う。」と言われた。結局ペテロは三回もイエス様を否定した。しかも誓って否定した。
しかし最終的にペテロはよみがえり、イスカリオテのユダは死ぬ。バビロンのイスラエルの呪い(イスカリオテのユダ)、悔い改めとよみがえり(ペテロ)のことをイエス様は私たちに語ってる。
十二弟子はイスラエルの歴史の継続である。旧約聖書の中でイスラエルのストーリーは十二弟子の中の二人に分けている。イスカリオテのユダは偶像礼拝の裏切り者。ペテロは裏切るが悔い改めてよみがえる者。
このようにペテロとユダを一緒に考える。裏切る預言はユダだけではなくペテロにも預言される。
私たちにとって、このことは二つの意味において考えることができる。
一つは、信仰を捨てて、背教して神様を捨てて偶像礼拝をすることはあり得るということだ。実際にイスラエルの歴史の中で国全体にも個人にもそのような話は出てくる。
その中で一番驚き悲しむのはソロモンである。ソロモンはイスラエルの中で一番知恵のある立派な王様だった。聖書の三つの書物を書いた預言者のような王で、偶像礼拝と妥協するはずのない王だった。しかし妻たちの影響を受けて偶像礼拝をしてしまった。証明しにくいところがあるが、彼は最後に悔い改めて神様のところに戻ったと理解している。
だから背教はあり得る。イスカリオテのユダもその一人。ソロモンはある程度までその例である。イスラエルの民も何度も神様から離れて偶像礼拝をしてしまった。
パウロは、コリントの教会にこのように言う。
【第一コリント10:12】ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
ただ単に、私は大丈夫だと思わないで、自分の罪を真剣に悔い改めて、神様から離れないようにしなければならない。
私たちは毎週の聖餐式で心をあらたにして、罪を悔い改めて、「あなたが私を愛しているので、私はあなたを信じてあなたを愛します」と繰り返し告白する。これが私たちの立場である。これが神様を握ることである。
もう一つは、ペテロが三回も誓って知らないと言ってイエス様を裏切ったが、 悔い改めたから赦された。
昔の教会の中で、信仰から離れたら戻れるのかというディベートがあった。厳しいクリスチャンは、「いや戻ることはあり得ない」と言った。しかし聖書の中にペテロのストーリーが書いてあるのは、私たちが悔い改めるように励ますためなのである。ここまでイエス様を裏切る者でも、本当に悔い改めるなら赦される。罪人を喜んで赦してくださる神の愛の大きさを覚えて私たちは毎週礼拝している。だからと言って、何をしても良いという結論にはならないが、心から悔い改めるなら神様は赦してくださる。どんなにひどい罪を犯した者であっても、イエス様に戻り、礼拝に戻り、信仰を告白して神の赦しを求めるようにヨハネの福音書は励ましてくれる。
コメント