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「バプテスマのヨハネと新しい契約の祝福」マタイ11:2~11

  • 2025年12月14日
  • 読了時間: 17分

説教者:ラルフ・スミス牧師


マタイ11:2~11

さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。


今日の箇所は二つに分けられる。バプテスマのヨハネが弟子たちを通してイエス様に質問する部分と、バプテスマのヨハネがどんなに偉大な預言者なのかをイエス様が群衆に話す部分である。今日はこの二つについて考える。

まず後半から考えることにする。

⚫️バプテスマのヨハネは偉大な預言者である。

女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。(マタイ11:11)

まず、イエス様は、群衆にこのように尋ねる。

【マタイ11:7】あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。

バプテスマのヨハネは風に揺れる葦なのか。もちろんそうではない。ヨハネは弱々しくてすぐに影響を受けるような人物ではない。バプテスマのヨハネはエリヤのように強い、はっきりした人間であった。ヘロデ・アグリッパが自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアを自分のものにしたことについて、ヨハネが「それは律法にかなっていない」と言い続けたので、牢に入れられた(マタイ14:3~4)。ヨハネはそこまで大胆で勇気があって強い人物であった。

【マタイ11:8】そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。

バプテスマのヨハネは宮殿で柔らかな服を着ていたのだろうか。これは皮肉である。バプテスマのヨハネが王の宮殿にいたのは確かであるが、王の宮殿の牢獄にいた。ヘロデ王に逮捕されて苦しめられているヨハネは柔らかな着物を着ているのではなく、宮殿の牢獄で苦しんでいたのである。

【マタイ11:9】そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。

三回目にまた「何を見に行ったのですか。」とイエス様は聞く。そしてバプテスマのヨハネは預言者以上の者であるとイエス様は言う。

この三回のやり取りによってヨハネがどれほど偉大な人物なのかを話している。


偉大な人物である理由の一つは、バプテスマのヨハネの誕生のことである。彼は生まれることが不可能な状況で生まれてきた。それは創世記のイサクの誕生に似ている。

創世記の3章で、アダムとエバが罪を犯して堕落した時に、女の子孫が蛇の子孫の頭を打つこと、そして蛇の子孫が女の子孫のかかとを打つことを宣言された。その宣言通りにイエス様が苦しい経験をしたのだが、最終的には蛇はさばかれることになる。

アダムは女に「エバ(生きるという意味)」という名前を与えた。エバは生きるものすべての母であるからだ(創世記3:20)。

しかしその後の歴史を見るとがっかりすることばかりである。カインはアベルを殺し、人類全体が神に逆らったためにノアの洪水が起きた。その洪水の後、バベルの塔のさばきがきた。

人類は新しいスタートをしなければならなかった。それで神様はアブラハムを選んで、アブラハムとサラを導いて、カナンの地を与えるという約束をしてくださった。子どもが与えられるという約束もしてくれたが、その子どもはすぐには与えられなかった。アブラハムの信仰は神を信じて待つというものだったが、待っても待っても子どもは与えられなかった。サラもアブラハムももう子どもを産むことができない年齢になってしまっていた。そうなってから神様は「来年の今ごろに赤ちゃんが与えられる(18:10)。」と約束してくださった。アブラハムとサラはもう不可能だと思って笑ってしまったので、その子の名前はイサク(笑う)と名付けられた。毎日自分の子どもを呼ぶときに、「笑いくん」と呼ばなければならない。あり得ない年齢になってから子どもが与えられたのだから、アブラハムとサラは神様の約束がどんなに不思議であるかを思わされていただろう。

イサクが大きくなるにつれて、父と母は毎日笑って喜んで神様の不思議を思っていただろう。

子どもが与えられるのは不可能である、というストーリーは他にもあるが、アブラハムとサラに並行してしているのは、ザカリヤとエリサベツである。二人には子どもがいなかった。そして二人とも歳を取っていて、子どもが与えられるのは不可能であった。ところがある日、御使いが現れて、神殿の香の祭壇の右に立ち、「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。(ルカ1:13)」と言った。

年寄りで子どもが与えられるのが不可能の時に、イサクと同じように、神様はザカリヤとエリサベツにヨハネという子どもを与えてくださった。

【ルカ1:14~16】その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。

バプテスマのヨハネは旧約時代の最後の預言者であった。最初のスタートはアブラハム、サラ、イサクに与えられ、旧約の歴史の中でずっとこのテーマが続いた。サムソンもサムエルも産まれるのは不可能な子どもたちだった。旧約の歴史の最後に、イサクと同じようにバプテスマのヨハネが与えられ、神のしもべとなった。アブラハムとサラから始まった不可能な誕生の歴史は、主イエス・キリストの誕生の雛形である。イエス様の場合は処女マリアから特別に産まれた。これこそ不可能な誕生であった。バプテスマのヨハネの誕生まで、人々は創世記3:15にある約束の女の子孫を楽しみに、神様により頼んで待ち望んでいた。

バプテスマのヨハネが偉大な預言者であるということは、イサクのような約束の子どもであるからだ。


バプテスマのヨハネが偉大な人物である理由の二つ目は、彼がマラキ書にあるような主の道を備える偉大な預言者であるということだ。

【マラキ3:1】「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」

この預言はバプテスマのヨハネによって成就された。彼はすべての預言者たち以上にある意味で偉い。特別にイエス様の道を備える預言者として選ばれたからだ。ヨハネはイエス様の前にいて、イエス様の働きを紹介する特別な預言者であった。

マラキ書にバプテスマのヨハネがエリアのような預言者であるとも書かれている。

【マラキ4:5~6】見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

旧約聖書の中でモーセとエリアは一番偉大な預言者たちだったが、バプテスマのヨハネは彼らと同じレベルの預言者である。バプテスマのヨハネ以上に偉い預言者がいなかったというのは、ヨハネ、モーセ、エリヤのレベル以上の預言者がいなかったという意味だと思う。バプテスマのヨハネはエリアのような偉い預言者で、今までのイスラエルの歴史の中でだれもやらなかったことをやる。それは大人にバプテスマを授けることである。これは新しいことだった。しかもヨルダン川でバプテスマを行った。彼の父ザカリヤはエルサレムの神殿で働く祭司であったが、ヨハネは生まれたときから荒野にいて(ルカ1:80)、祭りのためにもエルサレムに行かなかったのではないかと思う。そしてヨルダン川でバプテスマを授けて、イスラエルはまったく新しくスタートをしなければならないということを象徴的に伝えているのである。

イスラエルは奇跡的に海を渡ってエジプトから出た。同様にカナンの地に入るときに奇跡的にヨルダン川を渡った。だからヨルダン川でバプテスマを受けるということは、新しいスタートに戻らなければならないということである。ヨハネはそのことをイスラエルに伝えている。「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから(マタイ3:2)」とヨハネが言ったのも、イスラエルがまったく新しいスタートをしなければならないというメッセージである。


バプテスマのヨハネは主イエス・キリストの道を備える大切な預言者であり、また預言者以上のものであるというようにイエス様が教えてくださった。イエス様の道の備えとして、特別な新しい儀式として、ヨルダン川でバプテスマを行った。


⚫️バプテスマのヨハネの質問

「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」マタイ11:3

ヨハネはこれほどまでに素晴らしい預言者であったが、じつはイエス様に質問があった。何かおかしいと感じたようだ。そこから11章が始まる。ヨハネは牢獄から自分の弟子たちを送ってイエス様に質問する。

「私たちが期待して待っているのはあなたですか。それともほかの人を待った方がいいですか。」とイエス様に聞いたのである。

【マタイ3:11】 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は、私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

このようにヨハネ自身がイエス様のことを紹介している。ヨハネはイエス様に、あなたはこのことばを成就するお方ですか、と聞きたかったのである。

なぜヨハネがその質問をするのかと言うと、彼が牢獄で苦しんで弱っていたからである。

ヨハネはエリアのような服を着て、自分がエリアのような働きをすることも認識してわかっていたので、エリアのように強く働いていたが、エリアも弱くなってしまったことがあった。

元々は、エリアは強くて素晴らしい預言者で、アハブとイゼベルの450人の預言者たちと戦って勝利を得たのだが、その後イゼベルはエリヤを必ず殺すと誓って言う。それでエリアは荒野に逃れて神様に祈った。

【第一列王記19:14】エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

すると神様はこのように答えてくださった。

【第一列王記19:18】しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

エリヤが苦しんで弱ってしまったので、神様は七千人があなたとともにいると言ってくださった。


それと同じように、ヨハネは自分が牢獄で殺されるかもしれないという状態になったときに、あなたは自分が紹介した来るべきお方なのかという質問をしたのである。

イエス様は直接簡単に「はい、そうです」とは言わず、イザヤ書から引用して答えた。

【イザヤ35:5~7、61:1~2】そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。…神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

人が癒されて祝福されて、貧しい人たちに福音が伝えられている、とイエス様が答えれば、ヨハネはイザヤ書を思い出すことができるのである。これはメシアが来た時のしるしであった。

イザヤ35章に書いてあるのは恵みと祝福だけではない。さばきの話もある。ただ、さばきがいつ来るか、どのように来るかはイザヤ書35章を見るだけではわからない。

ヤコブの手紙を見てみよう。ヤコブの手紙はマタイによる福音書と同じようにイエス様が昇天して御霊が与えられてからわりと早い時期に書かれた書物である。ヤコブ書はユダヤ人クリスチャンに対する手紙である。その中でヤコブは、待ちなさい、待ちなさい、と呼びかている。

【ヤコブ5:7~11】ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。

兄弟たち。苦難と忍耐については、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。

マタイ福音書23~25章でイエス様が預言した通りのさばきが必ず来る。これは四十年後のさばきのことを言われたのである。つまりヤコブが待ちなさいと言ったのは、AD70年のさばきを待つということである。

ペテロの手紙の中で、人々はクリスチャンをからかっている。

【第二ペテロの手紙3:3~4】まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」

このように言って、神様は待ちなさいと言ってくださっている。AD70年は来た。その前のAD64年にヘロデ大王が建てた神殿、BC18年からAD64年までかけて建てられたものが完成した。そしてその神殿が完成したときに、ユダヤ人たちが「これは神様のしるしである。私たちは神様の祝福を必ず受け続ける。だからもうローマ帝国には従わなくてもよい。これから新しい王国の時代が始まる」と確信して、AD64年からイスラエルはローマ帝国に逆らい始め、AD68年からさらに激しくなり、AD70年にローマ帝国はエルサレム神殿を完全に破壊してしまった。これによってイスラエルの神の特別な民としての時代が終わった。古い契約は終わり、神様はイスラエルと正式に離婚した。BC586年にネブカデネツァルが神殿を破壊したときよりも、今回はもっと徹底的であった。

そのAD70年を待つことを、ヤコブは手紙の中で書いている。神様のさばきが来ないことを見て、ヨハネは弱気になってイエス様に質問した。答えは「はい。」だけどもっと待たなければならない。もちろんバプテスマのヨハネはそのずっと前に死んでしまう。


イエス様は特に不思議なことを言う。

【マタイ11:11b】女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。

この意味は、新しい契約の時代の祝福がどれほど素晴らしいかということである。

イエス様が十字架上で死んで、よみがえって、ペンテコステの日に御霊を与えてくださり、新しい契約の時代が始まった。

AD30年からAD70までは、古い契約と新しい契約が両方一緒に存在していた。古い契約が引き続き有効で、神殿で人々が礼拝を行い、神殿は神の家として続けて存在している。パウロも神殿で礼拝していた。だから古い契約はまだ完全に終わったわけではなかった。

新しい契約の祝福はペンテコステの御霊の祝福から始まる。新しい時代には旧約の時代よりはるかに素晴らしい祝福が与えられたのである。もちろん古い契約の時代に御霊は一切働いていないというわけではないが、新しい契約の特別な祝福は新しい契約の人々の中にともに住むようになった。この祝福は旧約の時代よりはるかに素晴らしい。私たちはキリストにあるという祝福の状態になる。この状態は旧約の時代にはない。メシアが死んでよみがえって天に昇ったということは旧約にはない。だからそういう意味で、旧約の人がどんなに偉くても、キリストにあるという祝福の状態はない。だから新しい契約の最も小さなものは、ヨハネよりも偉大なのである。新しい契約の祝福がどんなに大きくて大切でそして優れたものであることをイエス様が話している。私たちはそれほどまでに祝福されている。私たちは古い契約の全ての人より、大きな祝福、大きな権威を与えられている。神様はキリストにある偉大な御恵みを私たちに与えてくださり、私たちを通して神の御国を築き上げるのである。

しかし、私たちにはヨハネのような質問もなくはない。

【マタイ28:18~20】わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、 あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを、守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

すべての権威がイエス様に与えられていると書いてあるが、世界中の教会の状態を見ても心配があるし、戦争の話、貧しい国、色々な苦しい状態、すべてがうまくいっているとは言えない。イエス様が神の右の座にすわって、全世界を支配する王であると私たち告白する。それを信じている。しかしイエス様はなぜ世界をこのようにしているのか、わからないことがたくさんある。解決は最後まで信じて待ち、イエス様がどのように導いてくださるかを待ち望むのである。最後にはすべて喜んで納得できる状態になる。その時まで、アブラハムのように感謝して待つ。

ヨハネの福音書6章で、イエス様が「私の肉を食べて、私の血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはない。(ヨハネ6:53)」と言ったら、たくさんの弟子たちがイエス様から離れてしまった。彼らはイエス様の言うことに耐えられなかった。これにユダヤ人はつまずいてしまったのである。イエス様がバプテスマのヨハネに「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:6)」と話したのは、実際にイエス様の弟子と呼ばれる人たちの中で、つまずいて、イエス様の教えに耐えられない人がいたからだ。

それでイエス様が「あなたがたも離れて行きたいのですか(ヨハネ6:67)」と言うと、ペテロがこのように答えた。

【ヨハネ6:68~69】 「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」

イエス様を信じる私たちも同じ立場である。すべてを理解できるわけではないし、すべての質問に答えられるわけではない。でも、イエス様ご自身を信じ、イエス様ご自身に目を留める。イエス様はよみがえりの初穂である。死に対して打ち勝って、罪に対して打ち勝って、よみがえって信じる者に永遠のいのちという恵みを与えてくださった。

いのちであり、よみがえりであるイエス様が、神の右の座にすわって、信じる者にいのちと祝福を与えてくださる。イエス様がこれからどのように歴史を導くかは答えられないが、最後の結論に至ればみんな満足できる。満足どころか喜びに満ちて、神様に感謝して、神様を永遠に礼拝することができる。アブラハムのように信仰をもってその時を待つ。

その信仰をもって私たちは毎週聖餐をいただく。

聖餐をいただくときに、主イエス・キリストが私たちの罪の身代わりになって死んでくださって、私たちが受けるべきさばきを代わりに受けてくださったことを覚える。そしてよみがえって四十日間繰り返し弟子たちに現れて、一緒に食べたり話したりして、ご自分が本当によみがえったことを、様々なことにおいて弟子たちにはっきりと証明した。イエス様はよみがえって、ペンテコステの時に御霊を与えてくださった。

これから主イエス・キリストの十字架の死と、復活を記念する聖餐をいただく。パンはイエス様のからだを表し、杯はイエス様の血を表す。私たちがこれをいただく時に、神の右に座っているイエス様から私たちに恵みが与えられる。

よみがえって勝利を得たイエス様に感謝をささげて、これからイエス様がどのように歴史を導くかがわからなくても、イエス様ご自身に目を留めて、信仰をもって待つ。



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