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「わたしの愛する子」マタイ3:13~17

  • 1月11日
  • 読了時間: 10分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


マタイ3:13~17

そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。

しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」

しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

今日は、顕現日後の最初の日曜日です。顕現日の前にはクリスマスがありました。クリスマスに生まれたイエスはだれなのか、どのようなお方なのか、その質問に答えるのが顕現日とそれに続く顕現節です。神様がイエス・キリストを私たちに表し、どのようなお方かを教えてくださる時なのです。

先週の礼拝では、顕現節の箇所、つまり東方の博士たちがイエスに出会う箇所を読みました。

【マタイ2:11】それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

黄金を通してイエスは王であること、乳香を通してイエスは祭司であること、没薬を通してイエスがご自分のいのちを世のためにささげる者であることを表しています。そしてもちろん博士たちがイエスの前にひれ伏すということは、イエスが私たちの神であることも表しています。


それに続いて今日は私たちの洗礼についての箇所を朗読しました。今日は、主の洗礼日という祭日で、イエスの洗礼を覚えて祝う日です。 毎年顕現日の次の日曜日が主の洗礼日になっています。

この日に私たちの教会で二人の赤ちゃんの洗礼があることはとてもふさわしいことです。

洗礼式を見るたびに、神様がどのように私たちを愛して、子どもとして受け入れてくださるのかを覚えて、その祝福を味わうことができます。そして自分の洗礼の意味を思い出す時にもなります。なぜ思い出すことが大切なのかというと、洗礼を受けて私たちが今の私たちになったからです。

御父がイエスに洗礼を与えた時と同じように、私たちにもしてくださいます。 


今日はマタイ3章を見ていきたいと思います。新約聖書の中で御父が初めて発言するのがイエスの洗礼の場面です。

イエスの洗礼では、二つのことが行われています。一つは御父が御子に御霊を送ったこと、もう一つは御父としてことばを語ったことです。


・バプテスマによって聖霊が与えられる

御霊は御父がイエスとともにいることを表します。御父は常にイエスとともにいて、イエスに語り続けます。そして導き、励まし、みこころを示し、そのみこころを行うための力も与えます。言い換えると、御霊をイエスに与える時に御子イエスがご自分のようになるように、御父は自分自身を与えています。

・御父はイエスに語ります。

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

御父はイエスにことばをかけます。

まずご自分の愛を宣言します。子は父に愛されるものであることを表しています。父と子の関係、親と子の関係は愛の関係です。そしてその子を愛することの中にその子を喜ぶことも含まれています。実際にだれかを愛しているならその人と一緒にいたいし、一緒に時間を過ごしたいし、言葉を交わしたいと思うものです。そしてその人に会ったら表情が変わります。その喜びの瞬間があるのです。

強調したいのは、洗礼はイエスの働きの始まりで、まだ何も働いていない段階でした。それなのにすでに御父はイエスが自分を喜ばせるものだと宣言しているのです。

ここに大切な聖書の原則が出てきます。恵みが善の行いに先立つということです。その恵みによって私たちは善を行うことができるのです。

聖書の歴史を見てみると、人が創造されて、アダムがエデンの園に置かれて、支配と豊かな食べ物と妻が与えられました。その後で善悪の知識の木の実を食べてはいけないという命令がきます。

イスラエルがエジプトから救い出されてから律法が与えられます。恵みが先に来てから善を行う力が与えられています。

【第一ヨハネ4:19】私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

神の愛が先に来るので私たちは愛することができるのです。

【使徒の働き10:38】 神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒されました。それは神がイエスとともにおられたからです。

まず恵みがあって、良いわざはそれに続いています。 御霊が与えられると善を行う力が与えられるのです。

善の行いは恵みから生まれてくるものなのです。

【テトス2:11~13】実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

まず恵みがあって、私たちが正しく生きるための訓練がきます。実際にイエスも洗礼のあとで、荒野で飢えている状態で、四十日間悪魔の誘惑にあわなければなりませんでした。 しかし、この洗礼の恵みのゆえにイエスは打ち勝つことができたのです。どんな誘惑を受けても、父は見捨てていないと信じ続けることができました。神の愛が足りないと思うことはありませんでしたし、神を試そうとも思いませんでした。それはイエスがご自分の洗礼を覚えていたからです。そしてこの愛に溢れた御父の訓練だと信じて受けていたからです。

【ヘブル12:6】主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。

 その訓練があったから、イエスは最後まで忠実に働くことができました。最後までとは十字架までです。イエスは十字架まで神のみこころを行うことができました。この洗礼の恵みによって、イエスは自分を憎む者たちを愛することができたのです。御父がイエスを愛していたからです。そして彼らのために自分のいのちもささげました。それで復活することができたのです。

洗礼はただ一度水に濡れることではありません。その水はすぐに拭き取られたり乾いたりしてしまいます。しかし水を通して与えられた御霊は一生私たちとともにいて下さるのです。

だから洗礼は始まりなのです。御父との愛の関係の始まりなのです。御霊がイエスに下った後で、御霊がイエスから離れることはありませんでした。


私たちの洗礼も、私たちと神との関係を変えて築きます。私たちは神の子となりました。それで私たちに起こるすべてのことの意味が変わりました。私たちにとって起きるすべてのことは、私たちが洗礼を受けたからです。私たちは神の子だからこのような経験、このような人生を送っているのです。

【マタイ7:9~11】あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

あなたの人生に起こるすべてのことは、パンや魚だと信じていますか。神様は自分の子どもに決して石や蛇を与えないと信じていますか。

時々神様に、「神よ、これはほしくありません。これは石です。取り去ってください。」と感じたりすることがあるかもしれませんが、私たちが自分の洗礼によって神の子となったと信じているなら、私たちが神から受けるものはすべてパンであり、魚なのです。すべてが祝福なのです。私たちのための訓練なのです。


今日洗礼を受ける二人の赤ちゃんも、これからの人生において色々な苦労があることでしょう。もしかしたら彼らに与えられる試練があまりにも大きくて、神の愛を疑う誘惑に出会うかもしれません。しかし今日、彼らに神様はご自分の愛を語ります。神の愛を疑う誘惑はすべて悪魔の偽りです。

洗礼の時、イエスはまだ働きを始めていなかったと言いましたが、赤ちゃんもまだ何も善を行っていません。しかし神様はすでに彼らを喜び、彼らに「わたしの愛する子」と宣言します。そしてご自分の御霊を彼らに与えて、それによって神様は常に彼らとともにいて下さると約束しています。この恵みは私たちが善を行うための力となります。そして御父の喜びが、私たちが御父に従って御父に仕えるための力となります。この人生のすべてのための力、荒野を最後まで歩く力、十字架の死まで私たちを導いてくださる力です。


しかし二人ともまだ赤ちゃんです。彼らはどうやってこの愛を知ることができるのでしょうか。どうやってこの日を覚えることができるのでしょうか。

そのために神様は親を与えてくださっています。神様は親たちの信仰を通して、子どもたちに信仰を与えてくださいます。だから親たちはまず自分の洗礼の意味を信じなければなりません。自分の洗礼で宣言された御父のことばを信じなければなりません。

私たちの人生が行き詰まったとき、大変な時に、御父が良いものしか与えないことを信じなければなりません。私たちは愛されている子として生きる必要があります。子どもたちがそのような親の姿を見ながら育つようにです。

もちろん親たちは自分の子どもを愛さなければなりません。

どのようにするかというと、自分の霊を子どもたちに与えます。人の霊は御霊のようなものではありませんが、親は子どもたちと共にいることが必要です。つまり自分の時間、関心を与えること、顔を向けること、言葉を与えること、これらが子どもたちに自分の霊を与えることであり、自分のいのちを与えることになります。親が与える愛はめぐみだと思ってください。親の喜びも恵みです。恵みとは、つまり子どもたちがそれを勝ち取る必要がないということです。子どもたちが良い子ではなければ親は喜びを感じない、というのはいけません。常に自分の子どもに出会うことが喜びです。何か良い行いをしたらやっと子どもたちのことを喜びだと思うのではありません。

親は子どもたちが生まれる前から愛しているはずです。だから喜びは親たちから溢れ出るものです。特に父親たちが家庭の中の喜びの源でなければなりません。そして恵みである愛と喜びがその子に一生の力を与えてくれます。

それで親たちはまず神の愛を示す責任があります。その第一歩は、子どもたちを洗礼の場に連れてくることです。子どもたちに神の子どもとして洗礼を受けるように導くことです。御父はその子どもたちを引き受けて、徐々に親と交代します。

私たちが神の子であるなら、神様がイエス・キリストを扱ったように私たちも扱われます。そうです。十字架が来るということです。でもイエスもご自分が愛されたように私たちを愛してくれています。そしてイエスもご自分の教会に御霊を与えてくれています。ペンテコステの時から、洗礼を受けた者すべてに御霊を与えてくださいます。

【ヨハネ15:9~11】父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

だから私たちは最後まで忠実に信じて神に従いましょう。私たちがイエスのような子なら、確かに十字架を背負う必要があります。しかしその十字架がたどりつく場所を私たちは信仰によって知ることができます。それは復活のいのち、永遠のいのちにつながります。それを洗礼を通して神様が私たちに与えてくださるのです。

父と、子と、聖霊の名によって、

アーメン



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