「世の罪を取り除く神の子羊」ヨハネ1:29~42
- 1月18日
- 読了時間: 13分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ヨハネ1:29~42
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」
今日は顕現日後第二主日、つまりイエスが現された日から二週間目の日曜日です。この時期はまだクリスマスに生まれたばかりのイエス・キリストは一体だれなのかを理解しようとしている時期です。
そして、その「イエスはだれなのか」という問いに対して、バプテスマのヨハネは「世の罪を取り除く神の子羊」であると答えています。
⚫️世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)
これは一体どういう意味なのでしょうか。じつはヨハネはこの答えを二日連続で言いました。
【ヨハネ1:29】その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
一日目にこのように言ったのですが、その反応については何も言及はありません。ヨハネに注目が集まっていたので「私ではありません。あっちを見てください」と言ってヨハネは自分に目を向けさせないようにしました。しかし人々はなかなかヨハネが指している方に目を向けてくれませんでした。
1章から見てみますと、パリサイ人たちはずっと「あなたはどなたですか」と聞いていました。ヨハネは「私はキリストではありません」と明言していたのに、いざキリストが現れても最初の日は特に反応がありませんでした。
ヨハネが使う「神の子羊」という言い方は、ユダヤ人にとってある意味で初めて聞く表現だったのですが、明らかにいけにえを指す表現だったので、神様が私たちに送ってくださった過越の祭でささげられる子羊であることをユダヤ人たちは理解できるはずでした。
でも一日目はだれにもピンと来なかったのかもしれません。
それで二日目にまたヨハネは証をしました。
【ヨハネ1:36】そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
今度は二人の弟子だけが反応してイエスについて行きます。彼らのイエスについての理解はかなりぼんやりとしていましたが、それでもついて行きました。つまりイエスについて来ていた弟子たちでさえ、イエスがどのような羊であるかを理解していなかったのです。この子羊が十字架にかけられて殺されなければならないというところまでは理解していませんでした。
ヨハネの証を聞いたときに、今でも同じような反応があります。今日(こんにち)でも、イエスはこの世の救い主であるかどうか、それを受け入れる人、信じる人は少ないと思いますし、それがどういう意味を持つのかピンときていません。そして特に反応しないのです。これが今でも続いている状態です。
何しろイエス・キリストはユニークなのです。イエスのような救いを与える人は他にはいません。他の宗教を見ても、人を救うと約束している政治団体や政党を見ても、イエスが与えようとしているものとは全く違うものを約束しています。
イエスは天から来る偉大なるセラピストではありません。つまりイエスが来たら、私たちはみんな自分に自信を持って、自分を好きになれる、そんな偉大なセラピストが現れたら、きっと私たちはみんな喜んでついて行くでしょう。
イエスは私たちの病気をすべて治す薬を作ってくれる偉大な医者、あるいは化学者でもありません。イエスについて行ったら、みんな毎日若々しく健康で、力を感じることができれば、私たちはきっとみんな喜んでイエスについて行くでしょう。
イエスは私たちの生活を便利にする色々な機械を発明してくれる科学者でもありませんし、私たちがみんな安心して生きて、豊かな生活ができるための偉大な経済学者でもありませんし、私たちの国境を守って平和をもたらす偉大な政治家でもありません。
このようなメシアを求めていたイエスの弟子たちはたくさんいました。でもイエスがただ彼らにパンを与えることはしないし、ローマ帝国の支配や圧力から彼らを救ってくれないとわかった時に、多くの弟子たちはイエスについて行かなくなりました。
他の宗教や政治家たちは私たちが望むものを与えようとします。この世の問題を直せばあなたは救われると言って、私たちにピンとくるようなものを与えようとするのです。私たちが常に求めているものを与えようとするのです。
しかし、イエスのことを「世の罪を取り除く神の子羊である」と言われた時、人々はあまりピンときませんでした。なぜピンとこないのかというと、その理由の一つは、罪は本当にこの世の問題なのか、と思うからです。この世の根本的な問題は、例えば貧しさ、病気、孤独だったりするのに、どうして罪なのですか、と思うのです。罪を除いてどうなるのですか。
罪についてピンとこないもう一つの理由は、他の人は確かにいろいろあるけれど、私自身に欠点は無いとは言わないが私の人生の一番大きな問題は本当に罪なのですか、と思う人も多いのです。
さらに罪についてピンとこない問題がもう一つあります。それはその人が自分の罪が好きで手放したくない、つまりこの罪から救われたくないと思っていることにあります。この自己中心的な生活はその人にとって心地よくて、日曜日の朝は寝ていたいのです。
あるいは人と接するのは利害関係だけで自分が得をする接し方をしたい。世界の中心に自分を置きたい。
あるいは物質を愛してお金を愛する生活をして自分の霊的な必要性を無視して生きたい。
あるいは人を許したくない、自分を傷つけた人たちを恨んでいたい、敵を愛したくないし、自分の問題は常に人のせいにしたい。
あるいは人の問題、人の痛み、人の必要性に目を留めたくない。
あるいは不道徳な生活を続けたい、ポルノをやめたくない、あるいは自分の妻(あるいは夫)だけを愛したくない、そこまでの基準を自分の基準にしたくない、自分の傲慢を手放したくない。
それで、結局自分の罪を手放したくなくて、罪を取り除く神の子羊について行きたくないのです。
ある人が自分の罪は自分の一番根本的な問題であること、それは神にとっても一番深い問題であると認めたとします。だとしても、どうやってこのイエス・キリスト、この神の子羊が罪を取り除くことができるのか、どうして私は彼に目を留めなければいけないのか、どうやって救われるのか。
彼らにとって自分の好きな偉大なるものが十字架にかかって死んでも何の意味もありません。現代人が「神の子羊」を考える時に勘違いするかもしれません。神の子羊は優しくて何の害もないペット、という意味ではありません。
つまり、私たちはみんなイエス・キリストみたいになって、みんな子羊みたいになって、だれもお互いに害を与えなければ、だれも怖くないのです。世界が過ごしやすいところになって平和になりますね、というような子羊の話ではありません。そうではなくて、この子羊は殺されて血が流されなければならないのです。この世の罪のために犠牲となるのです。罪があれば罰があるので、その罪を犯した者の血は流されなければならないのです。つまり、私たちの血が流されなければならないのです。
この場合はだれも私たちの代わりに罰を受けることはできません。なぜならみんな自分の罪を負っていて、自分の罪のためにまず死ななければならないからです。それで必要とするのは傷のない汚れのない子羊だったのです。そんな子羊はどこから来るのでしょうか。神から来るのです。いやむしろ神からしか来ません。だから神の子羊なのです。神様がイサクを救うために雄羊をくださったように(創世記22章)、神様が一番愛しているご自分の御子を与えてくださったのです。
ユダヤ人は過越の祭の時に羊を選んで自分の家に入れて三日間一緒に過ごします。可愛がってから殺すのです。イエスは過越の祭りの時に十字架で殺されました。つまり、他のたくさんの羊とともに殺されていたのです。
ユダヤ人は過越の日にエジプトから救い出された話をよく知っています。エジプトでイスラエルの民は奴隷として苦しんでいました。その時に神様はエジプトで生まれたすべての初子(ういご)を殺しました。しかしイスラエルの民は羊を選んでそれを殺して食べ、その血を自分の家の門に塗りました。じつはイスラエルの民の初子も死ぬはずでしたが、そうする者はすべて救われました。
全世界はエジプトのように奴隷の家なのです。そして神のさばきが下るはずだったのに、神様が可愛がっていたご自分の初子をこの世に送って、その息子を私たちの代わりに死ぬように与えました。私たちがこの神の子羊に目を留めるならば、私たちも救われます。この神の子羊の血が私たちに見られるなら、私たちはさばきを受けません。
別の視点から考えますと、神様は汚れた神殿に宿ることはできません。汚れた民とともに住むことはできないのです。人間はすべて神の神殿、神の宮となるために創造されましたが、きよめられない限り神様は私たちと住むことができないのです。
それでイエスは過越の祭の時に、十字架でご自分の血の力によってその神殿をきよめたのです。私たちの罪を一度完全にきよめて私たちの内に住む悪霊を追い出しました。悪霊が追い出されて空っぽになった家は御霊が入らなければまた悪霊が戻ってしまいます。だからイエスの復活から五十日後のペンテコステの日に、イエスは私たちに御霊を送りました。御霊の洗礼を授けたのです。それで神は再び人ともに平和のうちに住むことができるようになったのです。
⚫️あなたがたは何を求めているのですか。(ヨハネ1:38a)
これはヨハネの福音書で、イエスが初めて語ったことばです。
私たちはみんな何かを求めていますが、それが何かを知っているとは限りません。この二人の弟子たちはイエスの問いには直接答えませんでした。
【ヨハネ1:38b】彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
彼らはまだイエスがだれなのかはわかっていなかったが、どこかでイエス自身を求めていました。だからイエスについて行って、彼らが泊まっているところに泊まりたかったのです。
私たちもイエスについて行き始める時に、イエスはだれなのか、じつはよくわかりませんでした。いくら長くこのように生きていても、深く完全に理解することはありません。私たちが理解できるのはただ「イエスはメシアである」「世の救い主である」「神に油注がれたキリストである」ということだけなのかもしれません。でも最初はそれで十分です。そして、そのような者たちにイエスは水と火の宣言を与えてくれます。御霊の洗礼を授けて、その御霊が私たちをきよめて、私たちを導いて、私たちを教えて、どのようにイエスについて行くのか、どのようにイエスの弟子として生きることができるのか、それを教えてくださいます。
先ほどイエスはユニークであると言いました。イエスのよう救い主は他にはありません。イエスは唯一の過越の神の子羊なのです。私たちを救おうとする他の人たちの中には、そのような救い方をしようとする人はだれもいません。神の怒りを取り除くために、私たちの罪を負って死のうとした人はいませんでした。ムハンマドも、ガンジーも、ドナルド・トランプでさえもそんなことはしません。イエスだけが私たちの罪を取り除くために十字架で亡くなられました。どうしてそれがイエスだけにできるのかというと、そのために神が送った、神ご自身だからです。そしてイエスは、ご自分を食べるための子羊として私たちに送ってくださいました。殺された時に、ご自分の肉を世のいのちのためにささげました。私たちがその肉をいただく時に主と一つとなります。主としても主人としても私たちはイエスと一つになります。だから聖餐式は私たちの礼拝においても人生においても中心なのです。というのは聖餐式においてパンとぶどう酒をいただくことによって、私たちはイエス・キリストを神の子羊として知ることができるからです。
伝統的なリタジーでは聖餐式の前に必ずこの歌を歌います。
「世の罪を取り除く神の子羊よ、憐れみをお与えください。」
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.というラテン語で覚えている人も多いと思います。
これは祈りです。
私たちを憐れんでください。この祈りをささげるとき、私たちは神の子羊イエス・キリストに目を留めて、その祈りを通してキリストがだれなのかを思い起こします。
毎週の礼拝で、私たちはイエスとその十字架を見つめます。みことばにおいてイエスを耳から受けて、パンとぶどう酒を通して口で受けて、お互いの顔を通してキリストの顔を見ます。イエスは私たちをご自分の神殿に変えるからです。イエスは私たちを新しい神殿の生ける石に変えてくださいます。
ペテロはイエスに初めて出会いました。彼がイエスがだれなのかほとんどわからなかった時に、イエスはすでにペテロがだれなのかを知っていました。じつはイエスはペテロを求めていました。だからペテロを見つけたときに新しいアイデンティティ、新しい名前をつけます。
【ヨハネ1:42】イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」
ペテロは岩という意味です。しかしペテロはこの時点では自分が岩であることの意味を理解していませんでした。理解していなくてもイエスに従ってついて行きました。彼はたいした教育を受けていない漁師でした。きっと自分が岩であることも感じていなかったし、彼の行動を見ても周りの人も彼を岩として見ていないと思います。しかし彼はイエスが天から来たメシアであることを信じていました。
【マタイ16:16】シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
イエスは彼を使徒に、教会の土台に変えていきました。
イエスは私たちのうちにもそのように働くように祈ります。
「世の罪を取り除く神の子羊よ、憐れみをお与えください。」と祈る時に、「あなたを信じる弟子にしてください」と祈っています。私たちをあなたの新しい神殿の岩としてください。そしてその神殿で再び平和のうちに宿るように導いてくださいと祈ります。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン。
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