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「変容のイエス」マタイ17:1~9

  • 2月15日
  • 読了時間: 11分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


マタイ17:1~9

それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」


今日は色々な意味で特別な日です。

まず、今日は変容主日です。山の上でイエスが変容してその光が表されたことを記念します。毎年、四旬節の直前の日曜日、つまり顕現節最後の日曜日が変容主日です。顕現節は、神様がイエス様を啓示し、顕す(あらわす)ことを記念する季節です。クリスマスに生まれたイエス・キリストがどういうお方なのかを、神様が私たちに示してくださる季節なのです。

例えば、私たちは1月11日にイエスの洗礼のことを学びました。神様は洗礼を通してイエスがどのようなお方なのかをを私たちに示してくださいました。

そして今日は、神様が変容を通してイエス・キリストがどのようなお方なのかを教えてくれます。

そして今日はドリュー・パーカーさんの洗礼式があります。

彼は昨年の暮れからこの教会に通い始めて、今日は奥様の麻鈴さんも来てくださって、洗礼の証人となってくださいます。ぜひこの後も声をかけて彼の話を聞いて仲良くしてください。彼は今日から私たちの兄弟となります。


イエスの洗礼とイエスの変容はつながりが深いものです。イエスの洗礼はイエスの働きの前に来ます。そしてイエスの変容はその働きのクライマックスの前に来ます。イエスが洗礼を受けた時に働きが始まり、この変容があって働きのクライマックスに向かいます。イエスはこの変容の直前にご自分の十字架のことを弟子たちに話し、十字架の準備を始めています。

イエスの洗礼の時に、御父は「これは私の愛する子(マタイ3:17)」と宣言します。そしてこの変容の時にも御父はそれを繰り返して、それが事実であることを証しされました。イエスの洗礼は、イエスに召しを与えました。イエスの変容は、イエスがその召しを最後まで成し遂げることができるように力づけるためのものです。


⚫️イエスの洗礼

【マタイ3:16~17】イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

今日はまず、イエスの洗礼を見てみたいと思います。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天からの声がありました。

じつは私たちの教会の洗礼盤にも、ラテン語で「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と書いてあります。

この声はもちろん御父の声です。そして「わたしの愛する子」と宣言する時、もちろんこれは神様の御子に対する深い愛情を表しています。イエスがパンを求めた時、御父は決して石を与えることはなさいません。御父はただただ御子を祝福するために、すべてのものを与えてくださるのです。試練も災いも訓練も祝福のためなのです。

それ以外にも意味があります。「神の子」というのは位(くらい)でもあります。王の王、油注がれたキリストであるということです。

【詩篇2:6~7】「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。


神の子というのは、このシオンの山に立てられている王なのです。

【詩篇2:8】わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。

イエスの洗礼の時に御霊が鳩のように下り、油注がれました。油注がれた者とは、聖書では王様のことです。王の王には神の子としての働きがあるのです。それは、すべての国を御父に従わせることです。この地のすべての王が恐れつつ主に仕えるように導くのです。すべての民に正義と平和をもたらすのです。そしてすべて主に身を避ける人を祝福するために王とされました。


これは本当に偉大な働きです。イエス・キリストはどうすればこの使命を果たすことができるでしょうか。それは、御父の祝福から来る力によるのです。その祝福とは御霊を与えることです。そして「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」ということばです。その愛によって、その行為によって、そして御霊によって、御父はイエス・キリストにすべての必要な力を与えました。イエスがその偉大なる働きを最後まで果たすことができるようにするためです。

実際、イエスが洗礼を受けてすぐに荒野に引き出されました。そこで四十日断食して何も食べませんでした。その間、悪魔の誘惑を受ける試練にあいましたが、御父のことばと御霊を通して与えられた愛と祝福がイエスの力となって、イエスはその試練をすべて乗り越えることができました。


⚫️イエスの変容

イエスの歩む先には十字架があり、その働きのクライマックスに向かっています。

【マタイ16:21】その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

これは弟子たちにとって受け入れられないメッセージでした。ペテロはそれを聞いてイエスを叱ります。だれも理解することができず、だれも耐えることができない試練でした。

イエスは実際に逮捕され、弟子たちはみんな逃げてしまいました。

でもどうしてイエスは耐えることができたのでしょうか。イエスが十字架でサタンに向かっていくことができたのはなぜでしょうか。

それは御父から与えられている愛と祝福のことばによります。イエスはそれによって強められました。

【マタイ17:5】彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

「彼の言うことを聞け」というのは、「彼はわたしの王であるから、この王に聞き従いなさい」という意味です。そして御霊は雲の中に現れています。イエスの光り輝く姿は神の祝福を語ります。このように証しするものに囲まれています。

モーセとエリヤが一緒にいることも、律法と預言者がイエスについて証言していることを表します。

そしてもちろん弟子たちもいます。


そして御父がこのことばを繰り返して言うことには意味があります。だれかを愛する時、「愛しています」と言うのは一回限りではありません。励ましの言葉は必要な時に毎回言います。特に一番大変な瞬間、これから一番大変な戦いに挑む時にその言葉をかけます。

この御父の言葉は、イエスを力づけるためだけではありません。弟子たちに対してもそうでした。イエスはわざわざ弟子たちをここに連れてきて、彼らにもこの言葉を聞くようにさせたのは彼らためでもあったからです。

彼らが恐れないで、起きていられるように、イエスの復活の後に証人として立つことができるように。


この後、イエスは御父によって力を得て、十字架で神の子としてその働きを果たしました。ゴルゴタの丘の十字架でこの世の王たち、ヘロデもピラトも祭司長もパリサイ人たちも悪魔とその悪霊たちも、イエスに逆らい、戦って攻撃してきましたが、イエスはこれらの御父の敵と戦い、王として死にました。十字架上に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありました。しかし実際は、イエスの死に方を見た周りの人たちが「これこそ神の子だ」と認識しました。イエスは神の子としての働きを果たしたのです。

【マタイ27:54】百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」

イエスはご自分の死によって御父の敵を打ち倒しました。私たちを奴隷にする罪も、罪からくる報酬である死そのものも、イエスは打ち滅ぼしました。この十字架のおかげで、死はもはや私たちに対して力を持つことはできません。私たちの罪は赦されました。負い目は支払われました。もはや罪も死も、私たちに対して何の力もありません。私たちのうちにはすでに永遠のいのちがあります。


今日洗礼を受けるドリューさん、神様は今日、あなたにも「神の愛する子」と宣言します。あなたも父の愛と祝福を受け、イエスの働きに加わります。イエスの栄光も受けます。あなたもこの世の光となって、自分の周りにいる人たちに神の救いを与える者となります。洗礼を通して、あなたは天に登録されている長子たちの教会の一員になります。


【ヘブル12:22~24】しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。

私たちは洗礼を受けた者としてみんな長子なのです。みんなキリストとともに神の子であって、キリストとともに支配します。支配するというのは、力で好き勝手にすることではなく、イエスのように真理によって支配するのです。そうすればイエスとともに復活することができます。


この世の祝福のために、この世にいのちを与えるために、私たちは神の支配を広めます。だから私たちはイエスの働き、つまり十字架と復活と勝利に加わります。

洗礼を受けている私たちにとって、毎週の礼拝は変容なのです。毎週私たちの姿が変わります。イエスが七日目に高い山に登ったように、私たちもこの聖日に天にあるシオンという山に登ります。そこで私たちはキリストにあって、みことばを通して神の光を仰ぎ見ます。聖礼典を通してキリストの栄光を仰ぎ見ます。今日は聖餐式だけではなくて、洗礼を通してもそれを見ることができます。

私たちは証人の雲に加わります。

【ヘブル12:1】 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。

私たちが信仰を告白し、神の小羊に賛美をささげる時、私たちも弟子たちとともに、エリヤやモーセとともに証人となります。私たちが神と顔を合わせて、神の顔を仰ぎ見ながら神と交わりを持つ時、私たちの顔も光り輝きます。そして礼拝が終わった時、私たちはその輝いている顔のまま山から降りて、世の中に神の光を照らします。

そのようにして私たちは十字架の栄光を世に照らします。洗礼を受けてイエスに従っていくことは、決して楽なことではありません。私たちもみんな自分の十字架を背負っていかなければなりません。自分のからだを生きた供え物として神にささげなければなりません。

【マタイ16:24~25】だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。


今日、私たちがこの変容のストーリーを読むことには意味があります。今日は受難節の前の最後の日曜日です。今週の水曜日「灰の水曜日」から四十日の受難節が始まります。この期間は祈りや断食に専念する四十日です。断食は私たちの気をそらすものを取り除いて、祈りに集中して、自分を清めて、悔い改めて神の義を求めるために行います。それで聖金曜日の十字架と復活に向けて心を備えます。

聖書の中で四十日の断食をしたのはたった三人だけです。イエスとモーセとエリヤです。イエスの変容は、受難説に入るための完璧な入り方です。三年ごとの聖書日課では毎年マタイ、マルコ、ルカからイエスの変容の箇所を読みます。それはこの受難説から始まります。私たちが自分の罪を思うとき、自分の罪を悔い改めるとき、イエスの苦しみを思う時に、私たちが励まされて力を得て、最後まで神の義ときよさを求めていくことができるように、与えられる励ましなのです。と言うのは、この変容は私たちに自分の姿を見せてくれているからです。イエスの太陽のような姿は、私たちがこれからなる姿なのです。いずれ私たちが自分の目で見る御子を表しています。

【第一ヨハネ3:2】愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

ヨハネは愛する兄弟たちに呼びかけています。いつか私たちがこのイエスに出会った時、同じ姿となります。その希望に励まされてこの受難節を通ることができます。

私たちがみことばを通してイエスの光を見たように、これから洗礼や聖餐を通してイエスの栄光を見ます。私たちはその光を受けて、その光をまた世に照らすために、神様は私たちにこの祝福を与えてくださいます。



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