「十字架の栄光と勝利」マタイ27:11~54
- 3月29日
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説教者:ベンゼデク・スミス牧師
マタイ27:11~54
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスのほうをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
今日は棕櫚の主日で、イエスがエルサレムに入場したことを記念する日曜日です。これから聖週間が始まります。
また、今日は受難の主日とも言われます。だから福音書でイエスの十字架に至る長いストーリーを朗読しました。
本来は朗読箇所はあともう1章ありました。26章のイエスが裏切られる場面から始まるのですが、今日は27章を心に留めたいと思います。
はっきりしているのは、聖書は十字架を恥とは思っていないことです。それどころか私たちは目の前に十字架を掲げて、その意味を宣言しています。
聖書の中で十字架の場面を一番詳しく長く書いているのはどこでしょう。四福音書すべてです。驚くことに、その四福音書全体の約3分の1が、イエスが死ぬまでの最後の1週間について書いてあります。ヨハネの福音書だけ取り上げれば後半の半分が全部その話でした。そしてイエスが十字架にかけられた日を取り上げているのは、なんと四福音書の5分の1もありました。イエスの33年の人生のうち、あの一日が福音書の5分の1を占めているのです。
福音書に限らず、聖書のあちこちに十字架の話が出てきます。特に詩篇には多くて、福音書でもたくさん引用されています。今日朗読したマタイ27:46では詩篇22篇が引用されていました。
【詩篇22:1】わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。
私たちが朗読した詩篇31篇にも苦しみの話が出てくるし、イエスはルカ23章でこの詩篇を引用します。
【詩篇31:5】私の霊をあなたの御手にゆだねます。まことの神 主よ。あなたは私を贖い出してくださいます。
【ルカ23:46】 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
そしてもちろん預言書にもたくさん出てきます。今日朗読したイザヤ書50章の箇所は、ヘンデルのメサイアにも出てきます。
【イザヤ50:5~6】私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に、頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。
苦難のしもべについての箇所です。このように聖書が十字架を強調して何も隠さず、恥と思わずに見せて語っていることを私たちは当たり前のように思います。しかしじつはこれは衝撃的なことなのです。
現代では人々は十字架をアクセサリーとして身につけますが、拷問や死刑の道具と意識して身につける人はほとんどいません。しかし、聖書が書かれた当時の人ローマ人たちは、十字架が何なのかをよく分かっていました。なぜなら、自分の目で人が十字架にかけられているのを見ていたからです。
当時の人の上品な会話の中では「十字架」という言葉を使ってはいけませんでした。ローマの政治家であり哲学者であったキケロが、紀元前63年に書いた言葉を皆さんに読みます。「十字架という言葉でさえ、ローマ市民の身体だけでなく、その思いや視野、そして耳からも遠く隔てられていなければならない。というのも、これらすべてのことを実際に受け、耐えることだけだけではなく、それにさらされる可能性そのもの、すなわちその予期、さらにはそれについて言葉にすることさえも、ローマ市民、そして自由人にとってはふさわしくないからである」
十字架はこれほど恐ろしく恥ずかしいことでした。イエスが十字架にかけられた時、その場にいたユダヤ人もローマ人も、これが屈辱であり、敗北であると見ていて、自分たちがイエスに勝った瞬間だと思っていました。それでイエスを殴ったり、あざけったりしたのです。彼らにとって十字架はイエスが負けた証拠でした。「十字架にかけられたイエスは、偽りのメシア、敗北した王である」と彼らは思いました。しかし、同じ時代に生きていたクリスチャンたちは、自分たちの主がこのように十字架にかけられたことを、公に大胆に語り、これを全く恥と思っていませんでした。
パウロはこのように言います。
【第一コリント2:2】なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
パウロは、ローマ帝国で自分の目で十字架を見たことがあったかもしれない人たちの間にいても、十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心したというのです。
また、同じ手紙の中でこう言っています。
【第一コリント1:22~24】ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
ここでパウロは、復活したキリストだけが神の力、神の知恵だとは言っていません。もちろん復活も神の知恵、神の力ですが、十字架は復活から切り離すことはできませんし、復活も十字架から切り離すことはできないのです。
しかし、私たちはこれを信じていながらも、十字架のことになると、その残酷さ、不正義、苦しみ、醜さを前にして、目をそらしたくなります。私たちは十字架にかかっているイエスを見たくないし、頭の中でも想像したくないのです。
20年以上前に『パッション』という映画が出た時、それを見るかどうか数週間悩みました。結局見て、何時間も泣いてすっかり疲れ切ってしまい、その後、二度と見る勇気はありませんでした。
私たちにとっても、どこかで十字架が「敗北」に見えてしまうのです。そして私たちは復活へ早送りしたいと思ってしまいます。聖金曜日が長く感じて、その次の土曜日も長く感じて、早く復活に行きたいのです。
自分の人生でもそうです。今は苦難にあっているのだと分かっていても、早く終わってほしい。早送りのボタンがあれば押してしまいたい。十字架を見る時に、イエスがかかっていない清潔な象徴である十字架を好むのです。復活、勝利、救い、身代わりの贖罪という単なる象徴であってほしいという思いがあります。
しかし、聖書は十字架を隠していません。聖書において十字架は清潔な象徴ではありません。血まみれのいけにえです。そうでなければならないのです。私たちが十字架を見た時、イエスの死の苦しみの深さを見た時、自分の罪の深さが分かります。イエス・キリストがこれほどまでに苦しまなければならなかったのは、自分の罪がそれだけ深いからなのです。だから私たちは目をそらしてはいけないのです。またイエスの十字架の苦しみを見た時に、御父はこれほどまでに私たちを愛してくださった、ということもわかります。ご自分のひとり子をこのように苦しんで死ぬために送ってくださったほどに私たちを愛してくださっているのです。御父はひとり子のいのちをこの世のいのちのためにささげました。それを私たちが深く感じるために十字架から逃げてはいけないのです。
イエスは一度十字架で負けて、その後で復活して勝ったわけではありません。また、後に栄光の昇天によって屈辱を埋め合わせたのでもありません。十字架こそが、イエスの栄光の時でした。十字架にかけられる前に、イエスはこのように語りました。
【ヨハネ12:23】イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。…
十字架を栄光として見るためには、私たちに信仰が必要です。
また、十字架は悪魔に対する勝利です。
【ヨハネ12:31~32】今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
このように書いてあるものを読んでも、私たちが「あ、これは復活と昇天の話だな」、とだけ思ってしまわないようにヨハネは説明を付け足します。
【ヨハネ12:33】これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。
イエスが悪魔に対して勝利した瞬間は、十字架の瞬間でした。地上から上げられた時、すべての人を自分のもとに引き寄せたのも、十字架の時だったのです。
十字架でキリストの働きはすべて完了しました。私たちはよく、生きているイエス、奇跡を行っているイエスを神として見て、死んだ瞬間、十字架にかけられたイエスを人間として見る傾向があります。これほど力強い奇跡を行うことができるのは神だからだ。これだけ聖い生活ができたのも神だからだ。そしてイエスが死んだ時には、人間だから死んだんだ。
確かにイエスは死ぬために受肉する必要がありました。しかしこれも深い真理です。人として聖い生活をし、奇跡を行っているイエスと、神である御子として十字架にかけられたイエスは同一のお方です。神でありながらしもべの姿で現れ、自らを低くして十字架の死に至るまで従われました。だから、イエスには、すべての名にまさる名が与えられました。
その名とはヤハウェ、神である主という名です。
なぜそれがパウロの言葉ではっきりしているかというと、パウロは今日朗読したピリピ2章ででイザヤ書45章を引用していたからです。ここに唯一まことの神の名の話が出てきます。
【イザヤ45:21~23】わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、…
つまり、イスラエルの唯一の神は、イエス・キリストだと言っているのです。
だから、私たちはイエス・キリストをあがめて礼拝します。それはイエスが自分を虚しくして十字架まで忠実だったからです。十字架にかけられた時、人々はイエスをあざ笑って、「十字架から降りてこい。そうすればお前が神の子であることを証明できる。」と言いました。でもパウロの視点で見れば、イエスが降りてこなかったことによって、ご自分が最後まで忠実な神の子であることを証明されたのです。
私たちは、イエスを唯一の神と認めて礼拝します。じつはイエスが死んだ時、その周りにいた人たち、イエスを十字架にかけた人たち、イエスをあざ笑った人たちがそれを認めました。ローマ軍の百人隊長は、最初はイエスをあざ笑うために膝をかがめていましたが、最後にはイエスを信じて「この方は本当に神の子であった」と告白しました。それはイエスが復活した時ではなく、死んだ時です。あの死に方によって、イエスが神の子であったことが証明されたのです。
だから、私たちは十字架を恥と思いません。むしろ私たちの誇り、私たちの栄光、私たちの勝利だと思っています。私たちは十字架にかけられたイエスの前で、その名に膝をかがめ、イエス・キリストは主であると舌で告白します。そしてその裂かれた体と流された血を口にします。
そしてさらに、私たちはイエスと共に苦しむことを恥としません。それから逃げません。むしろ、キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、私たちの内でも、私たちの間でも抱きましょう。つまり、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従うという思いです。
私たちがそれをすることができるのは、イエスの復活のいのちと力が私たちの内にあるからです。そして、キリストは死んでよみがえり、再び来られるからです。世の終わりまでいつもキリストは私たちと共にいてくださるからです。
父、子、聖霊の御名によって。アーメン。
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