「トマス主日前の出来事」ヨハネ20:21〜23
- 4月12日
- 読了時間: 13分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ヨハネの福音書 20章21~23節
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなた方にあるように。父が私を使わされたように、私もあなた方を使わします。」こう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。「精霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を許すなら、その人の罪は許されます。許さずに残すなら、そのまま残ります。」
今日はイースター(復活祭)の2週目の日曜日、復活祭後の最初の主日です。この日はよく「トマス主日(トマスの日曜日)」と言われます。毎年この日に、イエス様がトマスの疑いをすべて取り除かれた素晴らしいストーリーを読むからです。
私は聖書の中で1番好きなストーリーを一つだけ選ぶことはできませんが、このトマスの話は間違いなく大好きなストーリーの1つです。それなのに、今日はあえてそのトマスの話はせず、その直前に起きた出来事について話したいと思います。
トマスが出てくる前、今日読んだヨハネの箇所に何があったでしょうか。あまり深く考えずに読むと、もしかしたら通り過ぎてしまい、衝撃を受けないかもしれません。でも、ここには実はとても衝撃的な話が書かれています。
「あなた方が誰かの罪を許すなら、その人の罪は許されます。許さずに残すなら、そのまま残ります。」
問題のところが聞こえたでしょうか。つまりイエス様はここで、教会に「罪を許す権限」を与えています。それどころか、罪を許さない(許さずに残す)権限も教会に与えているのです。
しかし、ここで大きな問題や疑問が生じます。
そもそも、神様以外の誰が罪を許すことができるでしょうか。神様しか罪を許すことはできないはずです。
じゃあ、教会はどのように、誰を、いつ許して、いつ許さないべきなのか、どうやって見分けることができるのでしょうか。
私たちは「何が誠の教会なのか」ということさえ今も議論し合っており、お互いを切り離したり認め合わなかったりしています。そんな不完全な教会が、どうやってこんなことを行うことができるのでしょうか。
実際、教会の歴史の中でこの箇所はたくさんの混乱や衝突を生み出してきました。
特に、現代の「個人主義のキリスト教」には、このイエス様の言葉はなかなか受け入れられません。私たちはどうしても次のように言いたくなってしまいます。
「いや、罪を許すのは教会ではありません。そして、誰が許されて誰が許されないのか、どの罪が許されないのかを決めるのも、決して教会ではありません。神様しかそれはできません。そして神様はみんなを許すのだから、私たちもみんなを許さなければならない。『どの罪を許して、どの罪を許さないか』なんていう難しいことには、もう触れない、考えない。」
そのスタンスのほうが、私たちの気持ちとしては心地いいのです。そう言えるなら言いたいところなのですが、それは明らかにイエス様のこの言葉に反してしまいます。
ここで、福音書にある別のストーリーと比べてみましょう。マタイの福音書9章2節からです。
【マタイの福音書 9:2~8】すると見よ、人々が中風の(チューブの)人を床(とこ)に乗せたまま御元に運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は許された」と言われた。すると律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒涜している」と言った。(※ルカの5章から言葉を付け足すと、彼らは心の中で『神への冒涜を口にするこの人は一体何者だ。神お1人のほかに、誰が罪を許すことができるだろうか』と思っていた。)
イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えるのか。『あなたの罪は許された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが優しいのか。しかし、人の子が地上で罪を写す権威(許す権威)を持っていることをあなた方が知るために」、そう言って、それから中風の人に「起き、寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神を崇めた。
これを見て、敬虔なクリスチャンは頷いてこう言うかもしれません。「ほら見て、イエス様はここで中風の人を癒して、自分が神であることを証明している。だからやっぱり、神様にしか人を許す権威はないんだ」と。
でも、聖書にはそう書いてありません。イエス様がこの中風の人を癒したのは、「自分が神だ」と証明するためではなく、「人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを、あなた方が知るために」です。ここでも言い方は「人の子」です。そして人々は、「このような権威を『人』にお与えになった神を崇めた」のです。この人に罪を許す権威を、神様が与えられたのです。これは素晴らしいことであり、崇めるべきことです。
また、マタイの別の箇所(16章や18章)を見ても、イエス様は弟子たちに対して同じ約束をしています。16章でペテロや弟子たちにこう言われました。
「私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなた方が地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなた方が地上で解くことは天においても解かれます。」
ここでもイエス様は、罪を許すこと・許さないことの話をしています。イエス様が16章、18章と繰り返し同じ言葉を使っているということは、「私は本気だ」ということを伝えているのです。
ですから、まずは私たち自身の前提や人間の感覚で、聖書にそのまま書いてあることから目をそらしてはいけません。聖書を通して神様が語られていることは、確かな事実です。
「すべての罪は神に対する罪であり、神だけが罪を許すことができる。しかし同時に、神様は明らかにその権威を、人であるイエスに与えられた。そしてイエス様もまた、明らかに自分に与えられたその権威を、使徒たち、すなわち教会に与えられた」のです。
神様が「人を介して動かれる」というのは、罪の許しだけに限らず、聖書の中で何度も出てくるパターンです。神様は聖霊において常に直接働かれますが、同時に、ご自分が選んだ聖なる民、祭司である民を通して働かれます。
洗礼を授けるのは誰でしょうか。先週もちょうど洗礼式がありましたね。ペンテコステで御霊を教会に送られたイエス・キリストご自身が、すべての洗礼を授けておられます。それなのに、牧師は洗礼式で何と言いますか? 英語なら "I baptize you..."、日本語では「私は」という言葉は省略されますが、「(私は)父と子、聖霊の御名によってあなたに洗礼を授けます」と言います。イエス様が洗礼を授けているのに、人間である牧師を通してそれを行っているのです。
キリスト教の結婚式で、誰が2人を結び合わせますか? イエス様の言葉によれば「神が結び合わされたものを、人は引き離してはならない」ですから、結び合わせるのは神様ご自身です。それなのに結婚式で牧師は「私は今、神と教会の名によって、この2人が夫婦であることを宣言します」と言います。そして私たちはそれを信じます。その瞬間から2人が夫婦になったこと、牧師の言った言葉に神の力があり、現実が変わったのだと信じています。
同じように、罪の告白と「罪の許しの宣言」のとき、牧師はこう言います。
「あなた方は主の言葉通りに許されます。」
この言葉を聞いたとき、私たちはこの人間の言葉を「神の言葉」として信じて受け入れ、自分の罪が本当に許されたことを信じて、喜んで感謝します。ルター派などでは、もっと直接的に牧師が "I forgive you all your sins..." (父と子、聖霊の御名によって、私はあなたのすべての罪を許します)という言い方をすることもあります。
「人間にそんなことができるなんておかしい」と言う人は、洗礼式で何が行われていたかを忘れてしまっているのだと思います。洗礼のとき、牧師が水を注いだその行為によって、受ける人の罪が洗い流され、新しく生まれ変わりました。
罪の許しの宣言というのは、すでに洗礼を受けた者に対するものです。一度バプテスマによって身体全体が完全に清められている人に対して、その後の日々の罪の告白において、イエス様は「足だけを洗う」必要性について語られました。
身体全体を洗うこと(洗礼)と、足だけを洗うこと(日々の赦し)、どちらの方がより大きな、偉大な行為でしょうか。当然、身体全体を洗う方です。教会が神と教会の名によって洗礼を授けることができるならば、当然、この1週間に積み重なった罪に対して、足を洗う行為(罪の許しを宣言すること)もできるはずです。
教会によって洗礼が授けられるときに神様が洗礼を授けてくださるのと同じように、教会が罪の許しを宣言するとき、神様ご自身が私たちの罪を許してくださるのです。
教会にはこの「天の御国の鍵」があります。罪を許すための鍵、そして罪を許さないための鍵です。
では、もう一つの問題に戻ります。「教会は勝手に、リーダーたちの思い込みで、許す・許さないを決めていいのか?」というと、もちろんそうではありません。
教会はあくまでも「神の代理」としてのみ罪を許します。神様だけが罪を許すことができるので、教会が提供する罪の許しは、神の許しそのものです。神様は教会をとおして許される。これも素晴らしい恵みです。これを聞いたとき、私たちは神を崇めるべきです。
聖徒たちは、天にある神の会議に座って、神と共に権威を持ってこの世を裁く、と聖書にあります。パウロはコリントの教会に「私たちは天使でさえも裁く。それならば当然、世のことも、教会のなかにいる人たちのことも裁くことができるはずだ」と言いました。全世界を裁く時が来るならば、今目の前にある罪を裁く権威も与えられており、それを使うべきなのです。
ただし、教会はこの力を、あくまでも「イエス様と1つになっている、神に従う下僕」として持っています。神の御名によって、御心通りにのみ、この力を使うことができます。ですから、もし教会が神に対して不忠実になり、神の御心通りに行わなくなったときには、もはや神の許しや神の裁きを伝えることはできなくなります。
では、神様はどのような人を許されるのでしょうか。
それは、「悔い改める(悔い改めた)人、すべて」です。
ここに、パリサイ人たちがイエス様に対して怒ったもう一つの理由があります。パリサイ人たちは、人間であるイエスが罪を許していることにも怒っていましたが、もう一つ、イエス様が「自分たちが見下すような、とんでもない罪人」を許すことに対しても激しく怒っていました。
イエス様はどんな人を許されましたか?
取税人のザアカイ、涙でイエス様の足を濡らして自分の髪の毛で拭ったあの罪深い女(売春婦)、姦淫の現場で捕らえられた女、さらには、自分を十字架にかけた張本人たち、です。
これらを聖書で読むとき、私たちは「素晴らしい神の恵みだ」と思って喜んでいるつもりになります。しかし、もし「自分が今まさに怒っている相手」や「ひどい目にあわされて、早く裁いてほしいと思っている相手」に対して、神様が寛大に許し、祝福を与えたとしたらどうでしょうか。私たちは途端にそれを「受け入れがたい」と感じてしまうのではないでしょうか。
ダビデが殺人と姦淫の罪を犯したのに許された話を読んでも、私たちは今さら怒りません。パウロがかつて教会を激しく迫害していたのに許された話を読んでも、私たちは怒りません。
しかし、聖書に出てくる他の人物はどうでしょうか。
アハブ王:は、北イスラエルで最も邪悪と言われ、神の預言者たちを虐殺した王です。このアハブが心から悔い改めたとき、神様は彼を許し、災いを下すのを遅らせました。
マナセ王は、 南ユダの歴史の中で最悪の王です。自分の息子を偶像への生贄として焼き殺し、罪のない人々の血をエルサレムの隅々まで満ちるほど大量に流した男です。このマナセが敵国に捕らえられて苦しみの中で悔い改めたとき、神様は彼の願いを聞き入れ、彼を許してエルサレムの王座に戻されました。
ニネベ(アッシリア帝国)は 当時の中東で最も残酷で、国ごと滅ぼしては生存者を拷問し虐殺していた恐ろしい帝国です。そのニネベの人々がヨナの預言を聞いて悔い改めたとき、神様は彼らを許し、災いを下されませんでした。
もし私たちが当時その場にいて、彼らによって苦しめられていた被害者だったとしたら、間違いなく神様に対して激しく憤っていたはずです。預言者ヨナのように不機嫌になり、放蕩息子の話に出てくる「怒って家に入ろうとしないお兄さん」のようになっていたでしょう。なぜなら、事実として、神様の恵みというのは、私たち人間の感覚からすれば「過激すぎる(過激に寛大すぎる)」ものだからです。
それなのに、教会は「悔い改めるすべての人」に対して、罪の許しを宣言しなければなりません。なぜなら、神様が彼らを許されるからです。私たちは神の僕であり、神の使いだからです。そして同時に、私たち自身もまた、その「過激すぎる神の恵み」がなければ、一瞬で滅ぼされるしかない大きな罪人なのです。
一方で、人間が「えっ」と引っかかるもう一つの言葉、イエス様が教会に与えた「許さない権威」についても考えなければなりません。
どんな罪が許されないのでしょうか。それは、「悔い改められていない罪」です。
人は悔い改めるならどんな罪でもすべて許されますが、悔い改めない限り、罪は許されません。ですから、教会には人々に御言葉を教え、警告を与え、罪を罪であると指摘して「裁く(見分ける)責任」が与えられています。その責任を果たすために、場合によっては、教会は許しを与えず、その罪をそのまま残します。それはその人を憎んでいるからではなく、頑なになっているその人の心が柔らかくなり、もう一度神様のもとに戻ってくるためです。
しかし、私たち人間に「罪を見分けて許したり、あるいは許さずに残したりする」なんていうことが本当にできるのでしょうか。これは非常に難しく聞こえます。いや、難しいどころか、人間にとっては「不可能なこと」です。
でも、神様にとってすべてのことは可能です。だからこそ、イエス様はこの言葉の前に「あるもの」を与えられました。それが「聖霊(みたま)」です。
この箇所の順番をよく見てみてください。
イエスはこう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を許すなら……」
聖霊は、私たちに知恵と力を与えて助けてくださるお方です。神の御心を知り、それを地上で行わせるのは聖霊です。イエス様は私たちに、不可能なミッション(働き)を丸投げするわけではありません。その働きを命じると同時に、それをこなすための力と知恵をセットで与えてくださるのです。
かつてイエス様が公生涯に入られるとき、ヨルダン川で洗礼を受けられた際、その上に聖霊が下りました。それによってイエス様は神の御心を完全に行い、メシアとしての働きをすることができました。それと同じように、イエス様は今、私たちを送り出されます。
「父が私を使わされたように、私もあなた方を使わします。」
どのように送り出すのか。それは、「聖霊の力によって」です。
もちろん、この一つの短い説教の中で、これに関するすべての問題(「じゃあ何が真の教会なのか」という教会論の複雑な話など)を扱い、すべての疑問に答えを出すことはできません。私にも答えられない複雑な問いがたくさんあります。
けれども、今日皆さんにどうしても覚えて帰ってほしいことは、ただ一つです。
あなたがもし、心から自分の罪を悔い改めるならば、ここ(教会)で、あなたの罪は本当に、完全に許されます。
だから、教会をとおして神様が語られる、その恵み深い言葉をそのまま聞いて、疑わずに信じてください。
「あなた方は主の言葉通りに許されます。」
私たちはこの言葉によって、完全に許された神の民として、神に愛されている子どもとして、堂々と感謝をもって、これから神の食卓へとつくことができるのです。
父、子、聖霊の御名によって。アーメン。
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