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「家庭における親子関係」家庭に関する主題説教シリーズ06

  • 7月12日
  • 読了時間: 14分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


今日も家庭に関するシリーズの続きです。

今日は親子関係について一緒に考えます。

神様は、子どもは主からの恵み、祝福だ、と教えます。しかし現代は、おそらく歴史上初めて、ほとんどの人たちは子どもが祝福であると思わなくなっています。子どもが祝福であると信じていないのです。多くの人は子どもを負担だと思っています。そして子どもが欲しいかどうかを考える時に、自分にどれぐらい負担があるのか、損得で考え始めたりします。自分にとってどのくらい益になるのかを計算した結果、多くの人は、やっぱり子どもを産むのは割に合わない、という結論に至ります。

子どもが欲しいと思う人たちもいますが、それはどこかで自己達成のためであったり、あるいは自分の幸せのためであったりします。これは自己中心的な考え方です。親は子どもに関して決して自己中心的に考えてはならないのです。

クリスチャンが子どもを求めるのは、自分の得や益のためではありません。そうではなくて、私たちがより神のような存在になれるように、御父のような存在、私たちの創造主のような存在に近づくようになるためです。神様は人間を愛していますが、特に小さい人間を愛しています。どんなに疲れていても、イエスは弟子たちが子どもを追い払おうとする時に憤られました。そしていつでも、どんな状態でも、子どもを抱き上げて祝福したいと思っていました。それがイエス・キリストです。

その反対に、悪魔の特徴の一つは子どもを憎むことです。特に現代で目立っているのは、子どもが生まれないように悪魔が色々と努力していることです。結婚外で肉体関係を持つように勧め、結婚内では肉体関係を持たないようにさせようとします。

しかし、神様は私たちに子どもを産んでほしいと願っておられます。そして、子どもが生まれないようにするのをとても難しくしています。それも神様のデザインです。なぜなら、私たちは子どもを産む時に、神様の創造の働きに私たちも加わっているからです。

【創世記1:28】神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。

この祝福の内容は、「生めよ。増えよ。」ということです。子どもが与えられること自体が、神様が最初の夫と妻に与えている祝福なのです。

神様はこの世界をご自身の似姿で満ちるように導こうとしています。ご自分の似姿で世界が満ちるということは、つまり世界が神の栄光、神の支配、神の愛、神のいのちで満ちるということです。

そして、だれかが父あるいは母になった時に、神様はその人の心に、ご自身の愛を置きます。私たちは親が自分の子どもを特別に可愛がるのは当たり前のこと、生物学的なことだと考えてしまいます。確かに生物学も関わりますが、その生物学をデザインしたのは神様なので、この愛は、ただの自然な法則に過ぎないものではなく、神様が親のひとりひとりの心に与えている賜物です。それはもちろん子どもに対する賜物ですが、同時に親に対する賜物でもあります。すべての子どもたちが、神様のデザイン通り、生まれた時から自分を愛し守り養い仕えてくれる父と母がいる状態で、同時に親にも神のような存在になれる幸いが与えられています。


イエスは「受けるよりも与える方が幸いである」と教えています。親に愛されることは素晴らしい祝福です。しかし、それ以上の祝福は、子どもに愛を与えることなのです。それは御父の資質そのものにあずかる祝福です。子どもが祝福であるなら、親たちは子どもを何人求めるべきなのでしょうか。

【詩篇127:3〜5】見よ子どもたちは主の賜物胎の実は報酬。若いときの子どもたちは実に勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ 矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき恥を見ることがない。

クリスチャンとして、私たちはこのみことばを信じます。

矢とは、霊的な戦いに勝利するために神が放つ武器であり、御国の勝利につながるものです。私たちが毎日「御国が来ますように」と祈っているなら、この世が賢明で経済的に妥当だと思っている数以上の子どもを求めることがふさわしいです。言い換えると、一つの家族が責任を持って育てられる最大の数の子どもを求めるべきです。

もちろん、責任が持てる数というのは家庭において様々です。そして子どもは神様から与えられるものなので、求めれば必ず与えられるとは限りません。ですから、私たちは決してお互いが何人産むべきかを決めつけてはなりません。それぞれの夫婦が祈って、自分たちにとって最大の数はどれくらいなのかを神様に求めるべきです。また、子どもを求めていてもまだ与えられていない人たちのことを常に覚えて、彼らのために祈ってください。


では、子どもが与えられたらどうすればいいのでしょうか。

子どもが生まれると、数年以内に親は教育の話をし始めます。学校かホームスクールか、公立学校か私立学校か、モンテッソーリかIB(アイビー)か。

こういった教育はもちろん大切ではありますが、経済的な力を得て、良い学校に行かせて、良い大学に行かせて、場合によっては留学も行かせて、将来子どもたちが良い会社に勤めて、安定した収入を得させることができるようにすることが親の一番大切な働きではありません。子どもたちがこの世的な成功を手にして、安定した生活ができるようになった時に親として成功したわけではありません。親たち自身もこのようなことを気にしすぎています。私たちの宝がそのようなものになってしまうと、私たちが意図していなくても子どもたちに、このようなものが大切だよ、と教えてしまいます。そう言って子どもたちをだまして、間違った方向に導いてしまいます。良い親ほど子どもたちに、幸せになってほしい、と言ったりします。そして子どもたちがなるべく自分たちで決めるようにさせようとしたり、最終的には楽な人生を送ることができるように導こうとします。

または、子どもたちがこの世的に成功するようにプレッシャーをかけて、野心を持って大きな目標に向かいなさい、と促す親もいます。彼らは子どもたちに、今苦しめば成功することができる、と言って励まします。

クリスチャンの親たちはどちらの道が正しいのでしょうか。

もちろんどちらでもありません。

クリスチャンの親は、自分の子どものために楽な幸せを求めはしません。この世のものを愛するように促したりもしません。

【第一ヨハネ2:15〜17】あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。

クリスチャンの親たちは、キリストのような子どもを育てようとするべきです。キリストの人生を送るような子どもです。言い換えると、子どもを生きたささげ物として育てるのです。その子どもたちも、世のいのちのために自分のいのちをささげます。

ヨハネも、世を愛しているならその人のうちに御父の愛はないと言います。

では、御父の愛はどこで見ることができるのでしょうか。それはアブラハムのストーリーにあります。

旧約聖書の最も謎めいた話の一つは、イサクがささげられる物語です。アブラハムは自分の息子が生まれるのを百歳まで待ちました。そしてやっと約束の子イサクが生まれたら、数年後に神様はこのように命令します。

【創世記22:2、9~13】神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」…

神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。

アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

謎めいた物語です。この物語の意味は旧約聖書だけを読んでも理解できません。新約聖書のヨハネ3章16節を読んで初めて理解できるのです。

【ヨハネ3:16】神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ここに「世」ということばが出てきます。私たちは罪深い世を考えてしまうかもしれませんが、この世とは神が愛している世界のことだと思ってください。

アブラハムは「自分の子をささげる父」であり、御父のような父であったからこそ偉大なのです。

御父は世を愛し、私たちが罪と死から救われるために、愛する独り子を十字架で死ぬために送ってくださいました。イエス・キリストご自身が、イサクの代わりにささげられた雄羊なのです。現代の人たちは御父の愛を忘れて、イエスがどれだけ自分を愛しているかという点にばかり注目しがちですが、聖書は御父の愛に重きを置いています。御父の愛とは、自分の愛する子を世のいのちのためにささげることです。ですから自分のいのちをささげることが一番の犠牲ではありません。それ以上の犠牲は自分の愛するひとり子を捧げることなのです。クリスチャンの親も、このような犠牲を払うように召されています。もちろん子どもが若いうちは彼らをこの世から守りますが、時期が来たら、アブラハムのように神の命令に従って、子どもを神にいけにえとしてささげます。それは彼らが殉教者となること、この世のいのちのために生きて死ぬためです。

この物語から、アブラハムはイサクをよく訓練していたことがわかります。イサクが年老いた父に抵抗せず、自ら父の意思に従って自分をささげたからです。クリスチャンの親のミッションは、イサクのような、あるいはそれ以上にイエス・キリストのような子どもを育てることです。一生をかけて十字架の道を歩むような子どもです。

【ローマ8:14】神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

クリスチャンの家庭で育った子どもたちの一番のアイデンティティはキリストになければなりません。自分はキリストのからだに属する一つの器官であること、目にみえる教会に属するものであること、その意識が必要です。だから一番のコミュニティは他のクリスチャンでなければなりません。キリストの見えるからだ、教会です。子どもたちが、自分の国籍が天にあることを覚えて生きることができるように、人生におけるすべての決断がクリスチャンとしての決断となるように、神に従って、神を信じて、自分を生きたいけにえとしてささげて生きることができるように、そのような子どもを育てることがクリスチャンの親のミッションです。


では、どうすればそのような子どもを育てることができるのでしょうか。子どもは工場から出てくる機械のようなものではありません。こうすれば絶対こういう車ができるというものではありません。むしろ農夫が嵐や干ばつや台風が来るかもしれない中で、何が出てくるかわからないまま働くようなものです。工場の人はマニュアル通りに問題を解決しようとしますが、農夫は嵐が近づいてきた時にひざまずいて神に祈ります。子育てもそのようなものです。自分の力ではどうにもならないことなので、神に頼りながら行うのです。

しかし、マニュアル、つまりやらなければいけないこともあります。その一つは、親自身が神の子どもとして生きる必要があるということです。口で言うことを人生で実践しなければなりません。イエスはヨハネ13章で、弟子たちの足を洗うことで模範を示されました。

【ヨハネ13:14〜15】主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

子どもたちは偽善に敏感です。彼らは親が口で言うこと以上に、親がやることから影響を受けます。私は偽善者になりたくないから言うのをやめよう、というのは選択肢にはありません。私たちは正しいことを言い続け、同時に自分の行いを変えて正しい生き方を求め続けなければなりません。そして、親も不完全で偽善的であることを告白して謝る必要もあります。


皆さんは一貫したクリスチャンですか。家庭でも職場でも教会でも一貫してクリスチャンとして生きていますか。

まず、特に父親たちに聞きたいことがあります。統計的にも、父親の宗教心は母親の宗教心よりも圧倒的に子どもに対して影響力があります。お母さんだけが教会に行くパターンだと、将来は子どもたちはほとんど教会から離れてしまいます。しかし、お父さんだけが教会に行くと、家族みんながそこに導かれるパターンが大半です。これも神様のデザインです。

父親の皆さん、霊的に自分の家庭を導いていますか。それは神から与えられている私たちの責任です。

【エペソ6:4】父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

これがアブラハムがやったことです。

【創世記18:19】わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。

父親の皆さん、祈っていますか。人といるときだけでなく、一人の時にも祈っていますか。毎日常に祈っていますか。

子どもたちに 神様のことを教えていますか。 

子どもたちの人生について彼らと語っていますか。神についていくことについて対話してサポート(コーチング)していますか。もし、自分より妻の方がその働きに向いているから任せています、と答える父親がいるなら、父としての責任を放棄していることになります。そしてそのうちに妻から尊敬されなくなり、その次に子どもたちから尊敬されなくなります。そして父親がこのような選択をしなさいといざ導こうとした時に彼らはあなたの言うことを聞きません。

父も母も、自分の子どもたちが神の子として生きるために、自分が神の子として生きる努力をしましょう。


次に、すべての家庭は仕えるものでなければなりません。良い夫、良い父はどうすれば家族を養うことができるかを考えてがんばって働きます。しかし成長した父親は、自分の家庭がどのように他者に仕えることができるかを問います。聖書がリーダーシップを語る時、もてなしが強調されます。結婚は二人だけのためにあるのではなく、世の祝福のためにあります。

【創世記12:3】わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

アブラハムによって全世界が祝福されるために彼は選ばれました。夫婦が一体となるのは、より御国に仕えることができるためなのです。同じように、子どもを産むのも、洗礼を授けるのも、子どもたち一人一人がメシア(油注がれた者)として世を救う働きに用いられるためです。


聖餐式において、私たちはイエスの十字架の犠牲を祝うだけでなく、私たち自身も同じ犠牲を払うことを約束します。パンとぶどう酒が祭壇の上に置いてあるのは、私たちが十字架にかかったキリストと一体となり、イエスの妻としてミッションをともにするためです。しかし、十字架はただの犠牲の場、苦しみの場ではありません。十字架は神の栄光と義の表れ、永遠のいのちと祝福への門です。神様がこの世に御子を送ったのは、世を愛していたからだけでなく、御子を愛していたからでもあります。十字架を通して、御父は御子に最大の祝福を与えることができました。

私たちが洗礼を受けた時にこの働きに加わるように召されています。

【ローマ8:16〜17】御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

ですから、私たちは自分の子どもたちを殉教者となるために育てます。それは私たちが神を愛し、子どもたちを愛しているからです。そしてこの子どもたちがキリストとともに、苦難を通って栄光を受けることができるように求めているからです。

父と子と聖霊の御名によって。

アーメン。



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