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「既婚者と独身者の人生における優先順位」家庭に関する主題説教シリーズ07

  • 7月19日
  • 読了時間: 10分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


今日も家庭シリーズの続きです。

既婚者と独身者の人生における優先順位について一緒に考えます。

クリスチャンは「愛の秩序 」と表現されます。元々はラテン語の“ordo amoris”からきていて、英語では“the order of love”です。この表現はアウグスティヌスが最初に作って、その後も特にトマス・アクィナスやC.S.ルイスたちが使い続けてきたものです。

アウグスティヌスが伝えたのは、私たちが正しく良い人生を生きるためには、正しいものを正しく愛することが必要だということです。

ただ単に愛するものを減らすとか、そこまで愛さないとか、そういうことではなくて、すべての良いものをそれに相応しい愛し方で愛するべきだという考え方です。


私たちはまず何を第一に愛するべきでしょうか。

これについて聖書はとてもはっきりと、神様ご自身であると教えています。

【マタイ22:37~38】イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

これが、重要な第一の戒めです。

私たちは毎週十戒を一緒に唱えていますが、その第一戒は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない(出エジプト20:3)」という命令です。預言者たちも同じようなことを繰り返しています。

【イザヤ44:6】イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。

今日歌った詩篇86篇でも同じようなことを歌いました。しかし私たちはただ命令されたからそうする、ということではなくて、なぜ命令されているかを考えなければなりません。それは私たちが神を必要とするからです。キリストは私たちの創造主であり、贖い主であり、いのちのパンであり、花婿です。それで、私たちの愛の優先順位において神と並んで競争するものがあってはなりません。神と競争するものはないどころか、すべてが神に対する愛に含まれていなければならないのです。私たちの神に対する愛は、単に「第一位」という意味だけでなく、「すべて」なのです。ほかの愛はその中にあり、アルファとオメガの間にくるものだと考えています。


では、神の次に何の愛がきますか。

文化によっては親子の愛を重視するかもしれません。夫婦には血のつながりはありませんが、親子は血がつながっているいるからです。しかし聖書にはこのように書いてあります。

【創世記2:24】それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

夫婦は親子以前に存在する契約的な関係です。これは一生の関係で、子どもが生まれるのは先に夫婦愛があるからです。そして、子どもが育つときに生涯続く夫婦愛という契約に向かっています。

パウロは結婚についてこう言っています。

【第一コリント7:32~34】あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。

つまり、優先順位が変わるという話です。心が別れるとは、神を喜ばせることと、夫あるいは妻を喜ばせようとすることをある意味で両立させようとしなければならないということです。パウロはこの状態を批判しているわけではありません。ただ現実として語っており、現実を変えようとしているわけではないのです。結婚してはならないとか、結婚していても夫や妻を喜ばせようとしてはならないとは続きません。ただこれが結婚の現状だと語っているに過ぎません。つまり、結婚している人は、未婚の人と同じような生き方をしてはならないということです。その夫や妻を喜ばせなければなりません。

ここで一つ気づくべきことは、パウロが子どもの話を持ち出していない点です。多くの人はここで間違えます。特に日本でよくある間違いは、親子関係を夫婦関係より先に持ってくることです。気持ちは理解できます。子どもは待てない存在だからです。赤ちゃんが泣けば、すぐに走って世話をしに行かなければなりません。もう少し大きな子どもなら「家に帰るまで待って」と言えるかもしれませんが、大人はどうでしょうか。「明日まで」「来週まで」「何年も」待たせても大丈夫だと思ってしまうのです。

親たち、特に母親たちは本能的に子どもを優先させて、いつの間にか夫婦でお互いを「ダーリン」や「ハニー」と呼ばなくなります。金口(きんこう)のヨハネと呼ばれていた教父、聖ヨハネス・クリュストモスは、「夫婦はお互いを名前で呼ぶのではなく、このような愛情を表す表現で呼び合うべきだ」と言っています。しかし、いつの間にかお互いを「パパ」「ママ」と呼び始めます。それ自体が悪いわけではありませんが、そう呼ぶことで、お互いを共同養育者として見始めて、夫婦として見なくなってしまうことに気をつけなければなりません。自分の力、時間、エネルギーをすべて子どもと仕事に費やした後に、夫婦の間に何も残らなくなってしまいます。気をつけなければ簡単にそうなってしまいます。

日本の場合、仕事だけでも大変ですし、子どもだけでも大変です。そこにさらに夫婦関係を維持しようとすると、複数の要求をすべて満たすのは非常に困難です。その結果、「大人は我慢できるだろう」と後回しにしてしまうのです。

もう一つは、子どもが生まれると男女の違いが顕著に現れるということです。女性は出産を通じて母親になりますが、男性はその経験を直接持つことができません。母親と父親は生物学的にも心理学的にも異なる存在です。ですから、お互いを理解しサポートし合うためには、多大な努力が必要です。そのタイミングで努力を怠ると、夫婦関係自体への興味を失い、そこから得られる祝福も減ってしまいます。それに費やす力も関係を回復させようという思いすらなくなってしまうのです。

一番良い状態だと、ただの良い友達や良いルームメイトになっています。しかし、それではキリストと教会の関係を表す一体というユニークな夫婦の関係性を表せなくなってしまいます。

悪い状態だと、争いが増え、それを避けるために距離を置いたり、不倫に走ったり、離婚に至ることもあります。

【第一コリント7:2~3】淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。

パウロは夫婦としての義務について教えています。結婚しているなら、神様の次に夫や妻を喜ばせ、からだにおいても精神においてもたましいにおいてもその必要を満たそうとしなければなりません。神様がその働きのために、あなたをその相手に遣わされたのです。ですから、結婚している人は神様を第一に置く時に、そのみこころに従って夫婦愛を育てなければなりません。それは家庭の中で神の愛を表すためです。


では、神様が第一、夫婦が第二であれば、第三の愛は何でしょうか。それは子ども、すなわち親子の愛です。この愛も、ほかの二つの愛と並んでいるのではなく、それらの愛のうちに宿っている愛です。

なぜ子どもが生まれるのかといえば、それはまず夫婦が愛し合っているからであり、子どもを求めるのは、神様が私たちが子を産むことを望んでおられるからです。そのようにして私たちは神の御国を求めます。

もちろん、赤ちゃんを授かった瞬間から、その子を優先して生活を組み替える必要があります。家族の中で最も弱い赤ちゃんを一番大事にするのは、必要なことです。しかし、子どもが他の大切な存在の代わりになったり、その場所を奪ったりしてはいけません。続けて結婚関係を守り、祈りの時間を守り続ける必要があります。親が子どもに与えられる最高の賜物は、神を愛し、お互いを愛し合っているお父さんとお母さんであることです。その環境の中で育つのが一番の賜物です。


第四の愛は仕事です。

じつは、この順番はエペソ人への手紙の5章と6章に同じように出てきます。5章の終わりに夫婦の話、6章の話の始めに親子の話、6章の終わりに主人としもべの話が出ます。でも最後に出てくるからといって、重要でないわけではありません。仕事も私たちの愛の対象なのです。神様はアダムにエバを与える前から働きを与えておられました。御国のための働きをしないで神様を喜ばせることはできません。

【第二テサロニケ3:10】あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。

お腹が空くという仕組み自体、私たちが働くように神様が強制的に押し出しておられるのです。

働きは欠かせない愛ですが、これも同時にほかの三つの愛のうちに宿っている愛であり、それらの愛に仕えている愛です。聖書は家族を養うために働くべきだと明確に教えています。

【第一テモテ5:8】もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。


つまり、自分の家族を養わないことは、信仰を持たないことと同じだというのです。神様を愛しながら、家族を見捨てることはできません。しかし、働きも正しく愛さなければなりません。この働きがほかの三つの愛のうちに宿っているとき、その仕事が相応しい場所を占めている時にのみ良いものなのです。神に対する愛や家族に対する愛の代わりになったり、それと競争したりするようになれば、それは悪に変わっていきます。



では、独身の人や子どもがいない人の場合はどうでしょうか。結婚も独身も、どちらも神様からの素晴らしい賜物です。パウロは独身の状態を非常に高く評価してこのように言います。

【第一コリント7:7】私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

この賜物はあまりにも素晴らしいもの、ほかのすべての賜物よりも素晴らしいものです。

なぜ独身が素晴らしいのでしょうか。それは、不安な状態、思い煩いから解放されて、神様に仕えることに専念できるからです。

【第一コリント7:32】あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。

独身の賜物は、自分中心に生きるためのものではなく、主に心を配り、神に仕えることに専念するために与えられるのです。それなのに、多くのクリスチャンは、自分が若くて独身で自分のために生きる自由なことを神様に感謝しています。このような人は、夫も子どももいないのは自分の時間もお金も健康もたましいも全部自分のもので、自己中心に無責任に生きる自由があると思っています。真面目に生きるのは、結婚相手を見つけてからにしようと考えるクリスチャンは多いです。

だから独身の状態がむなしいことに驚かないでください。驚く代わりに、どうすれば神に仕えることにもっと専念できるのか、そこを追求し、やり始めてください。この正しい愛の秩序は、まず神、夫婦愛、親子愛、仕事に対する愛です。

独身者の場合は、神がいて、仕事があります。つまりもっとシンプルで、整理しなければならないリストは短いです。

だからより良く神を愛して神に仕えることに専念して、自分を生きたそなえものとして生きることができます。殉教者として生きることができます。

英語のorderという言葉には、秩序という意味も順序という意味もあります。ある意味で、今日の話は順序の話で、順番をつけるならこのようになりますが、私たちにはこのほかにたくさんの愛があるはずです。趣味だったり、自然だったり、友人関係だったりします。神様はこの世界を良いもので満たしていて、ご自分がお造りになられた世界を見て「良し」とされました。

だからこれ以外にもたくさん愛すべきものがありますが、すべて並べたとしても、角度を変えたらすべて、神の国と神の義を指す一直線上に並ぶべきだし、すべてを含むすべてのものに向かっているべきです。

【マタイ6:32~33】これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。


聖餐式を目の前にするときに、神様はここで私たちの愛に正しい秩序を与えます。私たちの目の前に私たちが第一に愛さなければならないお方、御父が第一に愛しているお方、イエス・キリストがおられます。イエスはいのちのパンで、私たちの永遠の花婿です。私たちはイエスを第一に愛することによって、そしてイエスに対する飢え乾きによって、ほかのすべてのものを正しく愛することを学びます。

父と、子と、聖霊の御名によって、アーメン。



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