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「主は羊の門、良い牧者」詩篇23篇、ヨハネ10:1〜10

説教者:ラルフ・スミス牧師


今日の朗読箇所の中に羊飼いの話がたくさん出て来た。詩篇23篇もその一つである。

私たちの教会の前に、ヘブル語から忠実に訳した詩篇23篇を掲げている。「主は我が牧者なり」で始まるが、教会の前を通る人がそこに立ち止まって読んでいる姿をよく見かける。

ヨハネの福音書10章では、イエス様ご自身が羊の門であること、そして良い牧者であることを宣言している。

第一ペテロ2章では、ペテロはイエス様について次のように話している。

あなたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり 監督者である方のもとに帰った。(2:25)



主は羊の門であること、良い牧者であることを理解するために、まず旧約聖書の背景を見てみようと思う。



⚫️良い羊飼いの旧約聖書の背景

聖書に出てくる最初の羊飼いは、創世記4章のアベルである。



次に羊の話が出てくるのがアブラハムの時代である。アブラハムは紀元前二千年頃の人物で、羊飼いと呼ばれたりはしていないが、二千人のしもべを雇い、何万匹かの羊を飼って、偉大な部族長と呼ばれていた。アブラハムの時代から聖書の終わりまで、羊飼いの話も羊の話も繰り返したくさん出てくる。

アブラハム、イサク、ヤコブは大きな羊の群れを所有して、羊にかかわる仕事をしていた。エジプトに下った時に、エジプト人のパロが羊と羊飼いを嫌うので、パロから離れてゴシェンの地に住まなければならなかった。しかしじつはゴシェンの地はエジプトの中でも最も良い地であった。



次に出て来るのはモーセである。モーセは紀元前千五百年頃の人物である。モーセはナイル川でパロの娘に救われて王の宮殿で育てられた。40歳の時にエジプトから逃げてミディアンの地に行き、そこでイテロに救われて彼の娘と結婚して羊飼いとして暮らした。40年たったとき、神がモーセにイスラエルをエジプトから救い出すように命じられたのでエジプトに戻った。

モーセの時から明白に、イスラエルの民全体が神の羊の群れとなった。羊飼いだったモーセは、今度はイスラエルのリーダーとして羊飼いの認識をもってイスラエルを牧していた。



モーセの次の偉大なる羊飼いはダビデである。紀元前千年頃の人物である。ダビデは若い時に羊飼いとして父親の羊の世話をしていたが、やがてイスラエルの歴史の中で優れた王としてイスラエルを導いた。ダビデ自身は羊飼いであると呼ばれて、王としてイスラエルを導いたが、ダビデの認識の中では自分は羊であり、牧者を必要としていた。

【詩篇23:1〜2】主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。



旧約の背景の大切なところをいくつか紹介した。イスラエルを助ける良い牧者は神様ご自身であるが、神はエゼキエル書の中で悪い牧師に対するさばきを警告している。

【エゼキエル34:9〜10】それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。



イエス様はイスラエルの神である。アブラハム、モーセ、ダビデ以上に良い牧者であることを私たちは感じるのである。本当の意味で良い牧者が旧約の背景で思い出される。



⚫️ヨハネの福音書の背景

【ヨハネ10:1〜10】「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。

しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。

門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。

羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。

しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」

イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。

わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。

彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。

「まことに、まことに、」は、原語では「アーメン、アーメン」である。ヘブル語のことばであるが、そのままギリシャ語になっている。ヨハネの福音書の中で、イエス様が「アーメン、アーメン、」と言って何かの話を強調するのは25回ある。話の導入ではなくて、話の途中や何か出来事が起きた時に入ることが多い。だから10章の「アーメン、アーメン」の意味を理解するために10章より前に戻らなければならない。

9章は生まれながらの盲人をイエス様が癒してくださる話である。そして7章を見ると仮庵の祭りが近づいている時だったことがわかる。盲人は神殿の近くに座っていて、施しを受けていた。生まれながらの盲人だったので、神殿に来る人たちはこの人のことをみんなよく知っていた。イエス様はこの人を癒したが、その癒し方は特別であった。

【ヨハネ9:6〜7】イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

そして、この奇跡を行った後、イエス様はいなくなった。

近所の人たちや、この人が以前は盲目で物乞いであったことを知っていた人たちが、この人をパリサイ人のところに連れて行った。

【ヨハネ9:17】そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。

パリサイ人たちは、以前盲目だった人が見えるようになったのを信じなかった。そしてその人の両親まで呼び出して確かめた。しかし両親はイエスをキリストだと告白すれば会堂から追い出されるので、パリサイ人を恐れて答えなかった。

それでパリサイ人たちはもう一度その人に聞いた。

【ヨハネ9:26〜34】彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」

彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。

神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。

私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。

盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。

あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」

彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

パリサイ人たちは怒って、盲目だった人を追い出した。その扱いはとても不親切だった。

そしてイエス様がこの奇跡を行ったのは安息日だった。安息日は奇跡を行うのに良い日だと思うかもしれないが、パリサイ人の中に、安息日の後まで待てるものは待つべきだ、というルールがあった。それでパリサイ人たちは安息日に人を癒したイエス様に対してさらに怒っていた。



イエス様はこの人が追い出されたと聞いて戻って来た。

【ヨハネ9:35〜41】イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」

イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

パリサイ人は悪い牧者で羊を助けなかった。羊に対して良い心をもたず、むしろ強盗のような心をもっていた。自分たちが偉くなるために羊飼いのような仕事をしているが、イエス様とは全然ちがう。イエス様は本当の羊の門で、良い牧者である。パリサイ人たちもそこに立って聞いている。助けられたばかりの盲目だった人もそこでイエス様を見て、自分に本当の良い羊飼いが与えられたことを感謝してイエス様を信じることができた。良い牧者は羊のためにいのちを捨てる。



ヨハネの中でこれと対比的なのは38年間病気にかかっている人がイエス様に癒された時のことである(ヨハネ5章)。

この人も同じように安息日に癒されたが、癒されたことに感謝の思いは何もなかった。そしてイエス様を信じないで、礼拝もしないで、パリサイ人の側に立った。自分を癒したのはイエスだとユダヤ人に告げたので、イエス様は迫害されてしまった。



皆さんにとって羊の話は毎日の生活にあまり関係ないと思うかもしれない。羊を見たことがない子どもたちもいるかもしれない。動物に接触する機会もないかもしれない。

私は大学時代にドイツで牛と豚を飼うために雇われて働いたことがあったが、ボスに1度だけ、放牧している羊を連れてくるように言われたことがあった。牛や豚と違い、羊は追いかけるとあちこちに散ってしまい、私の声に聞き従わなかった。主人にそれを報告したら、初めて自分がボスにからかわれていたことがわかった。

羊は牛や豚のように導くことはできない。羊は弱い。羊は羊飼いの声を聞いて従う。そして羊飼いは自分の羊の名前を知っている。

モーセはイスラエル全体を自分の羊として見て、愛して、優しく導いた。

今日、石倉さんはバプテスマを受けてイエス様の羊となった。少し前にさださんもイエス様の羊となった。

石倉さんにも、さださんにも私たちにも良い羊飼いがいる。イエス様は良い羊飼いとして羊を守り、私たちはどんなことについても羊飼いを信頼してイエス様に祈り求めることができる。

良い牧者は羊たちのために命を捨てる。そのことを覚えて聖餐をいただく。




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