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「御父の愛」ヨハネ14:1〜14

説教者:ボー・コグビル牧師(Reformation Covenant Church - Oregon, USA)



ヨハネ14:1〜14

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。



------今日の説教者は、CRECのオレゴンシティにある Reformation Covenant Church から来た、ボー・コグビル牧師です。明日からフィリピンに向かうので、その前に私たちの教会に寄ってくれました。------



おはようございます。父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和が皆さんにありますように。

私の名前はボー・コグビルです。15年前にレイチェルと結婚し、最初に娘が二人与えられました。私は先に娘たちが与えられたことを神様に感謝しています。なぜなら娘たちが私を穏やかにしてくれたからです。

そして6月に息子ケラーが8歳になります。今の彼のステージで私の大好きなことの一つは彼の愛情表現がはっきりしていることです。彼は父親のようになりたいと言ってくれています。そしていつも質問してきます。

お父さんが僕の年に腕立て伏せは何回できたの?

こういうことやああいうことは好きだったの?

日本に来る前に彼とじっくり話しました。彼が息子として与えられたことをどれほど神に感謝しているか、そしてどれほど彼を誇りに思っているかを伝えました。今回の旅で何かが起きて、万が一お父さんが戻らなかったら、あなたは何をすべきか分かっていますか、と聞きました。すると彼は戸惑わずに、自分がこの家庭を守ると言いました。彼はまだ8歳ですが、私は彼が小さい時から、自分の息子として、そして神の息子として、神を愛し神から与えられた責任を深く感じるように育ててきました。だからもし私が家族のもとに戻れなくても、息子は私の家族を守ってくれることを確信しています。

彼はまだ8歳で、決して完全ではありませんが忠実な息子です。

私は彼の地上の父として失敗することもありますが、天の父には失敗はないと彼に伝えています。



今日読んだヨハネ14章は、イエスがどれだけユニークなのかを教えてくれます。イエスだけが道であり、いのちであり、真理であると教えるために使われる箇所でもあります。そしてこれはイエスに関する素晴らしい真実です。イエスだけが御父への道です。イエスだけが神の真実なみことばです。イエスについて行く人だけが永遠のいのちをいただけます。イエスだけが上に昇る道です。

そして御父がイエスに降りて来ることも見えます。御子を通して御父はご自身を完全に表します。御子は御父が私たちに与えるいのちです。御子が来る前に、御父の栄光を見た人はだれもいませんでした。モーセでさえそれを知りませんでした。

【出エジプト33:18】モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものを、あなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思うものを恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

イエスが来るまでは、神の満ち満ちた栄光を見た人はいませんでした。しかし、イエスによって「私は神の栄光を見た」と言うことができるのです。

【ヨハネ1:18】いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

カナの婚礼でイエスが水をぶどう酒に変えた時、弟子たちはイエスの栄光を見てイエスを信じました(ヨハネ2:11)。

同じくカナで、イエスがカペナウムの王室の役人の息子の病気を癒したとき、イエスの愛情も見ることができました(ヨハネ4:46~54)。

弟子たちは、イエスが荒野で人々に食べ物を与えるのを見たし(ヨハネ6:1~15)、イエスが水の上を歩くのも見たし(マタイ14:25)、生まれながらの盲人を癒すのも見たし(ヨハネ9:1~41)、死人をよみがえらせるのも見ました(ヨハネ11:1~45)。

しかし、イエスはすべてを捨ててイエスについてきた弟子たちから離れる準備をしていました。そしてイエスはこれから彼らが多くの試練にあい、恐れ、孤独になり、神の約束を疑うことを知っていました。なぜならイエスとともにいた時でさえ、彼らがこのように反応していたからです。それでイエスは最後の晩餐の時に、ご自分が何をしてきたかを思い出させるだけではなく、イエスご自身がだれなのかを思い出させたのです。御子が彼らの前からいなくなっても、御父が彼らを見捨てないことを彼らが覚えるためです。

最後の晩餐までに、イエスは「わたしはある。」という神の名を7回言いました。御子は御父の栄光の現れであり、御子を知ることは御父を知ることです。この事実を話したのは、すでに悩みの中にあった弟子たちを慰めるためでした。

イエスは弟子たちに「あなたがたは心を騒がせてはなりません。(ヨハネ14:1)」と言いました。

それを聞いた弟子のトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(ヨハネ14:5)」とたずねました。

ピリポは「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。(ヨハネ14:8」と言いました。

イエスの答えが短いので、人によってはイエスがイライラしているのではないかと思うかもしれませんが、ここにはイエスのあわれみが表れています。親が忍耐強く子どもに話すように、イエスは弟子たちに話しています。

トマスには、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(ヨハネ14:6~7)」と言われました。

ピリポには、「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(ヨハネ14:9~11)」と答えてくださいました。

イエスはこれからいなくなります。ご自分の方がこれから大変なことになるのに、弟子たちのことを気にかけています。彼らが御父の愛を感じることができるように彼らを助けます。彼らが神に見捨てられたと思う時、神が自分たちを無視しているように思う時、彼らがイエスのことばを思い出して力づけられるようにするためです。ナタナエルに言ったことばを思い出してもいいでしょう。

【ヨハネ1:48】ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存知なのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」

愛している者を失うかもしれないと恐れる時、まるで自分が闇の中にいるかのような時、神様は私たちをどのように扱うでしょうか。

それを知りたければイエスとニコデモの会話を思い出すといいでしょう。ニコデモはパリサイ人でイスラエルの教師でした。イエスはこの人を教えて光の方に導きました。

【ヨハネ3:10〜15】まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

また、井戸に水をくみに来たサマリヤの女に二度と渇くことのないいのちの水を与えたことを思い出すといいでしょう。

【ヨハネ4:13〜14】イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」



苦しい時、死の陰の谷にいる時に、どうすれば希望をもてるでしょうか。

イエスがどのようにラザロをよみがえらせたかを思い出すといいでしょう(ヨハネ11:1~44)。



羊飼いを失った羊のようになってしまったら、どうすればいいのでしょうか。

神様の約束を思い出すといいでしょう。

【ヨハネ10:27〜30】わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。



弟子たちの心が動揺しているとき、イエスは、弟子たちがイエスを信じるように御父を信じなさいと言いました。

聖公会の牧師であるJ.I.パッカーは「神について(Knowing God)」という素晴らしい本の中でこのように書いています。

「もし、ある人が、キリスト教をどの程度理解しているかを判断しようとするなら、その人が自分が神の子であることをどの程度認め、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということを知ればわかります。もし、このことが、その人の礼拝と、祈りと、生活におけるその他の目に見える面を、促し、支配するのでなかったなら、その人はキリスト教を少しも良く理解していないのです。」



〜以下、J.I.パッカーの神について第19章からの抜粋です。

クリスチャンとは、神を自分の父として持っている人です。神の子というのは、すべての人々が生まれつきのままで持っている普遍的状態なのではなく、人がイエスを受け入れることによって受ける賜物なのです。

【ヨハネ14:6b】わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

神の子であるという賜物は、我々が生まれることによって与えられるのではなく、我々が生まれ変わることによって与えられるのです

【ヨハネ1:12〜13】この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

したがって、神の子とされるということは、恵みの賜物です。それは生まれつき子であるというのではなく、養子縁組によって子とされるということです。〜



神の養子となることを理解するのは、キリスト教の本質を知ることです。御父がいるので、クリスチャンは良い子としてそれを反映しようとします。

地上の親子の場合、良い子がいくら頑張っても良い父を反映するのに失敗します。また良い父も息子をがっかりさせます。

完全な父を完全に反映するのはイエス・キリストのみです。

あなたにも御父の愛を疑う時があるかもしれません。そのような時にはイエスを見てください。あなたはイエスを通して御父を知ることができますし、イエスを通して御父があなたを求めていることもわかって慰められるでしょう。イエスを見た時、どこかのよくわからない神が自分にどのように接するのか、あるいは無視するのかと心配しなくても良いのです。

【第一ペテロ2:9】あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

私たちはイエスを通して、ただ父親とはどういうものかを知るだけではなく、御父がどのようなお方であるかを知ることができます。御子を私たちに遣わしてくださったことにより、私たちは御父の愛を知ることができます。そして、ご自分に与えられたものを最後まで愛してくださった御子の愛も知ることができます。それを知っているなら、孤独で自分の世界が揺るがされている時にも、今日の礼拝で読んだステパノのように神の子であるイエスを見つめて、自分にどんなことが起きても、それが自分を愛して導いてくださる御父の導きであることを確信できます。

なぜそのように導かれているのかというと、神の栄光のため、自分の祝福のため、世のいのちのためなのです。アーメン





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