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「忠実な管理人」アモス8:4〜7・第一テモテ2:1〜7・ルカ16:1〜13・詩篇113篇

更新日:2023年2月18日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


アモス8:4〜7

聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地で苦しむ者たちを消し去ろうとする者よ。あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きの秤で欺こう。弱い者を金で買い、貧しい者を履物一足分で買おう。屑麦を売ろう。」主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない。…」



第一テモテ2:1〜7

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。神と人との間の仲介者の唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と心理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。



ルカ16:1〜13

イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』

管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』

そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と聞いた。その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。

主人は、不正な管理人が賢く行動したのほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富に仕えることはできません。」



詩篇113篇

ハレルヤ。

主のしもべたちよ ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。

日の昇るところから沈むところまで 主の御名がほめたたえられるように。

主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。

だれが 私たちの神 主のようであろうか。主は高い御位いに座し 身を低くして 天と地をご覧になる。

主は弱い者をちりから起こし 貧しい人をあくたから引き上げ

彼らを 高貴な人々とともに 座に着かせられる。

主は子のいない女を 子を持って喜ぶ母とし 家に住まわせてくださる。

ハレルヤ。




今日の四つの朗読箇所に共通するのは、「管理」というテーマです。特に私たちのお金の管理の仕方、使い方がどのように弱い人や貧しい人たちに影響を与えるのか、ということを考えさせています。


●アモス書から

貧しい人から搾取する話が出てきます。穀物を売買する場面ですが、もちろん神様は商売に対して怒っているわけではありません。不誠実な取引が行われていることに怒っているのです。私たちがスーパーに買い物に行ったら、肉が何グラム入っていくらか、お米は袋に何キロ入っていくらか、ということを考えて、表示された重さを信じてお金を払います。しかしこのアモス書に出てくる商売人たちは、それを狂わせていました。商品を売るときは表示より少なく入れて、自分たちが得をするようにしていました。あるいは、穀物を売るときに、重くするために食べられないものを混ぜて売って自分たちが得をするようにしていました。そうなるとここからしか買うことができない弱者たちが一番困るのです。弱者は別のところまで旅をして買いに行くことができないし、だまされて損しても訴えることができません。

でも一番の問題は、この商人たちが敬虔な偽善者たちだということです。彼らはちゃんとシナゴグで神を礼拝しながら、どうやって弱者をだましてお金を儲けるかを考えている人たちでした。神の家の中で悪を考えていました。

これはまさにイエスの時代の祭司たちと同じです。イスカリオテのユダがイエスを裏切るために祭司たちから渡されたお金があったのですが、ユダが後悔してそれを返しに行ったとき、祭司たちが何と言ったかみなさんは覚えていると思います。

【マタイ27:6】祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」

まるで自分たちがルールを守る正しい者たちのように言いました。彼らは自分たちのメシアを十字架にかけて殺したのに、律法に従って安息日を汚さないように安息日が来る前にイエスのからだを降ろしました。

これが敬虔な偽善なのです。神様はこのような人たちに耐えられないし、赦さない。

【アモス8:7】主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない。…」


●ルカの福音書から

イエスがルカの福音書16章で扱っているのはこのような敬虔な偽善者たちでした。

イエスに「あなたがたは、神と富に仕えることはできません。(ルカ16:13b)」と言われたとき、金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた(ルカ16:14)。

彼らは神に仕えるふりをしながら、お金を愛していました。そしてそれをやめるつもりはありませんでした。善人のように振る舞いながら、じつは貧しい人たちから搾取していたのです。

イエスは彼らに対して何を言ったのでしょうか。このたとえ話は一番わかりにくいたとえ話だと思います。難しいのですが、理解することは可能です。

ではそのたとえ話を見てみましょう。

金持ちは神様のことです。そして管理人は神様の民を導くために置かれているユダヤ人のリーダーたちです。そして金持ちの財産は神の民です。

管理人はその財産をちゃんと扱っていませんでした。当時のパリサイ人たちが行っていたことです。民に彼らが耐えられないような重荷を負わせているわけです。イエスはそのことを批判していました。例えば安息日やきよめに関して、ユダヤ人のリーダーたちはたくさんの細かい守るのが難しいルールをモーセの律法に付け足していました。そしてこのルールを破ってしまうと、民はけがれて負い目を負ってしまいます。しかし彼らが神殿にお金を払えばそのけがれはきよめられるので、民が負い目を負うと、神殿にささげられるお金が増えるのです。だからリーダーたちはたくさんのルールを付け加えました。しかも神殿でささげるためにはこの動物を高いお金で買ってささげなさい、と指定していたので、これもまたお金儲けにつながります。イエスは怒って神殿から商人たちを追い出しました。

【ルカ19:45~46】それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちがそれを『強盗の巣』にした。」

そしてまた別のところでは、神殿に献金すれば年取った親への責任を逃れることができると言いました。

【マルコ7:11】それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならーー』と言って、その人が父または母のために、何もしないようにさせています。

イエスによると、彼らはやもめたちを狙っていました。一番の弱者を狙っていたわけです。だから金持ちは管理人から仕事を取り上げました。これはイエスの教えによく出てくるテーマです。ユダヤのリーダーたちがさばかれることを預言し、警告するものです。イエスご自身が来てイスラエルの神殿を破壊し、エルサレムをさばいて、神殿制度や祭司制度を破壊するという預言です。

ではそのためには管理人はどうすればいいのでしょうか。金持ちの判断を変えることはできません。かならず仕事を取り上げられます。でも彼らは自分がいじめた人たちのような乞食にはなりたくないと思っていました。賢ければ、人に負わせている重荷を軽くするべきです。金持ちの名によって抑圧をやめるべきなのです。神様が与える荷よりも重い荷を負わせていたので、それを軽くしなければなりません。そうすれば実際にさばかれて仕事を取り上げられても、貧しい人たちは彼を受け入れてくれるかもしれません。金持ちもそれを認めてくれるかもしれません。それくらいはこの世の子ら、つまり異邦人でさえできることなのです。富を使って良い関係を築くことができるのです。

しかし、光の子らは異邦人より愚かで、お金を使って敵しか作りませんでした。パリサイ人やリーダーたちは、自分たちの終わりが近づいていることに気づいたなら、この偽善や神の名によって行っている抑圧をやめなければなりません。彼らは神の権威を使って金儲けをしていたので、それをやめて弱者を憐れんで彼らの荷を軽くすれば、弱い者たちが神の国に入ったときに、彼らも一緒に入ることができるのです。このたとえ話はこのような意味なのです。

では、このたとえ話は私たちにとってどのような意味があるのでしょう。私たちは弱者を抑圧したり、何かを搾取しているつもりはありませんが、私たちは自分に頼っている人たちをいじめていないでしょうか。ちゃんと支えて助けているでしょうか。それを確認する必要があります。このルカのたとえ話でいえば、明らかな対象は商売人たちで、いじめる相手を絞って、自分だけが得をするやり方をしていましたが、それはよくないという教えでした。自分がお金を儲けることができても、結局相手を罠にかけて利用したのですから、自分は賢いビジネスをやっていると思っても神様はそれを喜びません。特に相手が弱者で他の選択肢がないとき、自分により頼んでいるとき、それが大切です。相手が病気で治療を必要としているとき、医療の側は患者が出した条件を受け入れるしかないし、法的な問題を持つ人に弁護士が必要なとき、弁護士は必要な手助けをする必要があります。もっと範囲を広くすると、子どもは親に頼っているので、親からしか衣食住を得ることができませんし、夫婦もお互いから逃げることはできません。そのような人たち、神様が自分の人生にそのような人を置いたとき、彼らを利用したり、金儲けをたくらんだりしてはいけません。彼らは食いつくすためではなく、助けて祝福するために与えられている相手なのです。

【詩篇113:5b~6】主は高い御位いに座し 身を低くして 天と地をご覧になる。

神様は、自分に頼っている人を、私たちがどのように扱うのかを見てさばきます。ある意味で私たちが異邦人で未信者だとすれば、そこまで重くない罪なのですが、私たちがクリスチャンであるなら、バプテスマを受けて神の名がかかっているのですから、私たちが弱い者を虐げるのは神への冒涜なのです。私たちは毎週日曜日に教会に来ていながら、実際には毎日の生活でどのように得をするかを考えているなら、神のさばきから逃げることはできません。私たちはみんな管理人なのです。自分のお金も時間もエネルギーも自分のものではなく、神から出ているものなのです。自分の人生の中で影響を与える相手も神様から与えられています。私たちはただそれを管理しているだけなのです。そしてある日さばきが来ます。管理しているものが取り上げられます。私たちは死ぬ日にすべて取り上げられます。自分の財産もなくなります。年を取るにつれて、自分の力も若さも失い、子どもたちも巣立っていき、もはや自分が管理するものもなくなっていきます。ではそのあと、私たちは何を手に入れることができるのでしょうか。永遠に私たちのものになるのは何でしょうか。

【ルカ16:11~12】ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。

私たちは神に「もっとください」と祈ります。もっと健康をください、もっとお金をくださいと祈ります。またもっと影響力をくださいと祈ります。たとえば夫や妻や子どもや孫をくださいと祈るのは、影響を与える相手を求めているのです。自分が管理人として責任をもつ相手をくださいという祈りでもあります。もっとくれたらあなたに仕えます。もっとお金があればもっと献金できるのに、もっと能力があれば奉仕できるのに、もっと時間があればもっと祈れるのに、もっと権威があれば自分の周りを良くすることができるのに…などです。

しかしイエスのことばによると、「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。(ルカ16:10)

だからどうか自分をだまさないでください。今自分が持っているものを正しく管理しなければ、あとでもっと与えられても、それを正しく管理することはできません。だからもっとくださいと祈る前に、すでに与えられているものを正しく使っているかどうか確かめてください。その上で、もっとくださいとお願いすれば、神様は喜んで与えてくださいます。つまりもっとくださいと祈るのは悪いことではありません。神様のためにより大きな働きができるように力を求めるのは良いことです。

教会としても、もっとくださいと祈っています。私たちはこの教会堂の管理者です。私たちはここに集まる人に対する責任があります。私たちはもっと大きな建物を求め、今以上に大きな働きを求め、もっと多くの仕え人を求めています。しかしそのためにはすでにあるものに責任をもって忠実に管理しなければなりません。この小さな建物に対して忠実でなければならないのです。今、神様がポンと急に大きな建物を与えたら、私たちはまだそれをちゃんと正しく管理できないかもしれません。すでにあるこの神の家を祈りと神の栄光でいっぱいにしていない限り、神様にもっとくださいとお願いする権利はありません。すでにここに集まっている人たちに対して仕えていなければ、もっと仕える相手をくださいという祈りはできません。そのようなことが急に与えられたら、私たちはもっと無駄にして仕えるべき相手を無視したりします。

では私たちはこの小さな家をどのように用いるべきなのでしょうか。もちろん色々な答えがあると思いますが、今日は一つだけ話そうと思います。それは祈りの家です。イエスが神殿をきよめて悪い商人たちを追い出した時にイザヤ56章から引用しています。

【イザヤ56:7b】なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。

イエスがルカ19章で引用しましたところです。


●第一テモテから

今日読んだ詩篇にはこのように書かれています。

【詩篇113:4】主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。

神様はすべてのものを創造して、父として愛しています。だから私たちに命令するのです。

【第一テモテ2:1】そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

すべての人とすべての高い地位にいるすべての人のための祈りは、とても範囲が広いです。

【第一テモテ2:2】それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。

すべての人のために祈るのは、結局は教会のため、私たちのためなのでしょうか。

【第一テモテ2:3~4】そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

神様が愛しているのはすべての人です。そして神様はすべての人の救いを望んでおられます。

では私たちは世俗のリーダーである岸田首相や小池百合子東京都知事のために祈るべきでしょうか。答えはYESです。このリーダーたちが行うことは、私たちも含めたくさんの人が平安に生きることができるかどうかに大きな影響を与えます。

天皇のために祈るべきですか。彼らには権威がないので、高い地位にある人には当てはまらないから、天皇のためには祈らなくていいのではないかと言う人がいるかもしれません。あるいは、天皇は危険な力を持つ可能性がありすぎるので、天皇のために祈るべきであるという人がいるかもしれません。または、天皇は宗教的な要素が強すぎるので教会で祈ってはいけないという言う人がいるかもしれません。

しかし天皇はイエスの時代のカエサルほどは宗教的な要素は全然強くありません。ローマ帝国のすべての人はカエサルを神として、カエサルに直接祈らなければならなかったのです。それを拒否したクリスチャンたちは迫害されました。そのようなカエサルのために祈りなさいとパウロは言いました。

ではプーチンはどうでしょうか。プーチンは悪すぎるので彼のために祈ってはいけないのでしょうか。じつはプーチンよりも良かったカエサルは一人もいません。みんな自分の権威を増すために戦争をして人殺しをしていました。

バビロン帝国がエルサレムを破壊して、ユダヤ人を捕囚したときにエレミヤは次のように預言しました。

【エレミヤ29:7】わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。

自分の国を破壊した、一番祈りたくないバビロンのために祈りなさいと神様は言いまいた。

【エズラ6:10】こうして彼らが天の神に芳ばしい香りを献げ、王と王子たちの長寿を祈るようにせよ。

エズラにも、クロス王とその子たちのために祈りなさいと神様は命じています。

相手が悪いからというのも祈らない理由にならないのです。

では王のために祈るべきでしょうか。ローマ教皇はどうでしょうか。ローマ教皇は私たちの一人ではないという人がいるかもしれないし、彼はいろいろ真実を曲げて妥協しているから彼のために祈ってはいけないという思いをもつ人もいるかもしれません。しかしローマ教皇は確かにすべての高い地位にある人に含まれます。キリスト教会の中で一番影響力のある人です。クロスやカエサルより私たちに近い存在だと思います。だから、私たちは自分の中の言い訳を乗り越えて、祈らなければならないのです。

先週の説教にもつながりますが、私たちは奴隷のように従う立場にいるときに、革命的になるのです。主人に恨みをもって、倒したいと思っています。その主人のために祈りたくないのです。相手に敵対心をもつことは神様のアプローチではないし、神様が私たちに臨む態度でもないのです。すべての人の上に一人の神がいます。当時はすべての人の上に一人の神がいるとは思わなかったと思います。どの地域にも色々な神々がいて、この地域にはこの神がいる、この民にはこの神がいる、という考え方でした。

しかしすべての人の上にいる一人の神は、すべての人が救われることを望んでいます。そして悪い人たちをさばくことを、神様は喜びません。

【エゼキエル18:23】わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。ー神である主のことばー。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。

神様はヨナをニネベに送って警告を与えました。イスラエルの周りにも預言者を送って警告しました。神様はカインにも警告を与えたことを覚えているでしょう。

【創世記4:7】あなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。

悪者がさばかれるところを早く見たい人たちに、アモスはこう言います。

【アモス5:18】ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。

私たちの上にいる人たちが税金を無駄遣いしていると思っても、社会の上司が無能だと思っても、すべてその人のせいにして非難することはいけないということなのです。もちろん現実はひどいということは認めます。相手に非があるのを見て批判的に現実を捉えなければならないのですが、私たちはそのような主人のことも祈らなければならないのです。彼らが知恵をもって正しく支配すれば人々に平安が与えられるからです。そして私たちはその中でもっと自由に福音を伝えることができます。真実がすべての人に行き渡るのです。

私たちはこの小さな家をいっぱいにして世のために祈るべきです。毎週そうですし、日曜日以外の日もいずれここが祈りの家になることを望んでいます。だから私たちはこの小さな家を忠実に管理して、神様がもっと大きな責任を与えて下さるように祈りましょう。




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