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「神のあわれみと赦し」ヨシュア5:9〜12・第二コリント5:16〜21・詩篇32篇・ルカ15:1〜3、11b〜32

更新日:2023年2月18日

説教者:ラルフ・スミス牧師


ヨシュア5:9〜12

主はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。

イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。マナは彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫したものを食べた。


第二コリント5:16〜21

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。



詩篇32篇

幸いなことよ そのそむきを赦され 罪をおおわれた人は。

幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。

私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。

昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききったからです。

私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。

私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。すると あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

それゆえ 敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かって あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても 彼のところに届きません。

あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り 救いの歓声で 私を囲んでくださいます。

私は あなたが行く道で あなたを教え あなたを諭そう。あなたに目を留め 助言を与えよう。

あなたがたは 分別のない馬やらばのようであってはならない。くつわや手綱 そうした馬具で強いるのでなければ それらは あなたの近くには来ない。

悪しき者は心の痛みが多い。しかし 主に信頼する者は 恵みがその人を囲んでいる。正しい者たち 主を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。


ルカ15:1〜3、11b〜32

さて、取税人や罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやってきた。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。それでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。…

「ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。

それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

ところで、兄息子が畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』

すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出てきて彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰ってくると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」


⚫️ヨシュア5:9〜12

今日の三つの箇所のうち、新約聖書の二つはとても有名である。

そしてヨシュア記5章は他の二つに比べてそれほど有名ではないと思ってしまうかもしれないが、じつはこの箇所もとても有名である。イスラエルがエジプトの奴隷状態から救い出され、カナンに行くことになったが、その旅の途中で神様に逆らい、モーセ、カレブ、ヨシュアを殺して、新しいリーダーを立ててエジプトに戻ることを決断した。それで神様はこの最初の世代を荒野でさばいた。さばいたのは確かだが、ある意味でとても優しくさばいたとも言える。四十年間荒野を歩き、天から毎日マナを降らせ、服や靴は擦り切れず、二十歳の人は六十歳まで生きて子どもや孫たちの成長を見守ることもできた。その意味では、生活はそこまで大変になったわけではないと思う。そしてその四十年の旅の終わりに、とうとうカナンの地に入ることができた。それがヨシュア5章である。私たちはヨシュア5:9から読み始めたが、じつは8節で大切なことを話している。

【ヨシュア5:8】民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。

カナンに入ったイスラエルは割礼を行った。つまり、四十年の荒野の旅の間に、契約のしるしはなかったのである。まるで、契約の民ではなかったような四十年だった。

民は契約のしるしを受けて、過越の祭りを行った。過越の祭りは、一番最初はエジプトから解放されて救われたことを祝う祭りであった。つまりこの時が、カナンに入った民の全く新しいスタートであった。荒野の中で死んでいた民はよみがえった。新しいいのちを与えられ、新しい創造であるかのようなストーリーがヨシュア記5章である。私たちの間ではそれほど知られていないが、この箇所も旧約聖書の中では有名である。


⚫️詩篇32篇

詩篇32篇は旧約聖書の中で一番恥ずかしくて、一番残念な背景がある。

ダビデの話である。王になったダビデは、神様に豊かに祝福されていたのに、自分の友人ウリヤの妻を盗んだ。ウリヤはヒッタイト人で、ダビデの優れた勇士三十人の一人であった。ヒッタイト人は、ダビデの神を信じ、ダビデに仕えたいと思っている心のある人たちである。そのウリヤがダビデのために戦っているときに、ダビデは彼の妻バテシェバを盗む。これだけでも大変な罪なのに、ダビデはバテシェバが身ごもったことを知ってウリヤを戦場から呼び戻し、バテシェバと寝るようにさせようとしたが、ウリヤはそれを拒み、戦場では仲間たちが寝るところもなく戦っているのに、自分だけが妻と食事をして寝るなんてできないと言った。ウリヤはそこまで心のあるダビデの戦士であり友人だった。それを見て、ダビデは彼に将軍への手紙を託して戦場に戻した。その手紙には、ウリヤを戦争の最前線に送り出して彼が戦死するようにせよ、という命令が書かれていた。

このようにしてダビデはウリヤの妻を奪っただけではなく、ウリヤ自身をも殺した(第一サムエル11章)

それから一年ほどたって、預言者ナタンがダビデのもとにやってきて、羊の話をした。

【第二サムエル12:1b〜4】ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、もう一人は貧しい人でした。富んでいる人には、とても多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人は自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。一人の旅人が、富んでいる人のところにやってきました。彼は、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために調理しました。

これを聞いたダビデは怒り、その富でいる人は死に値すると言い、その雌の子羊を四倍にして償わせようとした。

【第二サムエル12:7】ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目の前に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』

ダビデは自分の罪を悔い改めて、すぐに詩篇51篇を書いた。今日読んだ32篇はもう少し時間がたってから同じ罪を悔い改めて書いた詩篇である。ダビデが心から悔い改めたので、神様は赦してくださった。

この詩篇は歌うために書かれている。歌うのはイスラエルである。ダビデの時代のイスラエル人は、ダビデの罪を自分たちの歴史の書物の中で知る。ダビデ自身は公然と悔い改めて、それを記念する歌を書いたが、イスラエルがこの歌を歌うとき、自分たちの理想と思っていた、尊敬するダビデ王が、ここまでひどい罪を犯したこと、そして神様がそのダビデ王の罪を喜んで赦してくださったことを歌うのである。

【詩篇32:5b】「私の背きを主に告白しよう」と。すると あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

ダビデが罪を告白しようと決心するとすぐに、神様が喜んで赦してくださった、というニュアンスである。喜んで罪を赦してくださる神の姿を、ダビデはこの詩篇で歌っている。このメッセージは旧約聖書の至るところに出てくるが、ダビデの詩篇の中で特に強調されている。イスラエルは、礼拝の中でこの詩篇を繰り返し歌っている。ルターの修道院では詩篇150篇全てを三ヶ月間で歌う。そして詩篇全てを暗記している。繰り返し詩篇を歌う中で、この有名なダビデの悔い改めの詩篇も繰り返し歌う。それを覚えてルカの福音書を見る。


罪を喜んで赦してくださる神ご自身が、私たちを罪から救うために人となってくださった。人となった神様はどのような姿なのか。そして何をするのか。旧約聖書の中で、シナイ山で現れた神は、地震、雷、大きな火で恐ろしい神だった。この神が人となって私たちに近づいたら、どうすればいいのか。

ところが、実際に現れたイエス様は、積極的にご自分の方から近づき、罪人や取税人と一緒に食事をする。それを見たパリサイ人と律法学者は、これはとんでもないことだと文句を言う。もちろんイエス様が罪人と一緒に食事をするという意味は、どこかでパーティをするとか、酔っ払うとか、そのような意味ではない。罪人や取税人たちはイエス様を求めて、イエス様の話を聞きたいので、イエス様は食べながら教えている。福音書の中で一番有名な取税人は福音書を書いたマタイである。マタイ自身についてのストーリーは三福音書に共通で、イエス様が取税人のマタイのところに行く(ルカ5:27)。マタイがイエス様のところに行ったのではない。イエス様がマタイを招くと、マタイはすべてを捨てて立ち上がり、イエス様に従った(ルカ5:27~28)。それからマタイは自分の家でイエス様を盛大にもてなし、取税人や罪人を招いたので、大勢が食卓についた(ルカ5:29)。イエス様がマタイの家で、罪人や取税人たちにみことばを教えるストーリーは、マタイ、マルコ、ルカの福音書に出てくる。マタイ自身がイエス様と同じような心をもって、熱心に福音を伝える者になっている。自分の罪を大きく感じていたマタイなので、その罪を赦された者として、福音を伝える使命に燃えていた。マタイはこのように感謝の心をもって福音を伝えていた。

しかしパリサイ人や取税人はイエス様が罪人や取税人と食事をしているのを見て文句を言う。そこでイエス様はたとえ話をする。

日本語でははっきりとわからないが、たとえ話という言葉は単数形である。しかし内容が三つあるのは面白い。

一つ目は、羊を百匹持っている人が一匹を失ったとき、積極的に探しに行く話で、二つ目は、ドラクマ銀貨を十枚持っている人が一枚なくして、家中を探して見つける話である。どちらも神様が罪人を探して、見つけたら福音を語って赦してくださるという意味がある。一人の罪人が悔い改めるなら、天に喜びがある。

【ルカ15:10b】一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。

御使いたちの前というのは、御使いたちは神様が喜んでいるのを見ているということである。

放蕩息子のたとえ話はイエス様のたとえ話の中で一番有名である。色々な歌や詞になっている。シェイクスピアのリア王の構造はこのたとえ話から取っている。シェイクスピアはそれを逆さにして、放蕩父親にしている。この劇の中では、放蕩父親は二人いる。リア王とグロスターである。そしてリアの娘とグロスターの息子は放蕩している父親を探しに行く。

神様が罪人を追いかけて、罪人が赦されるように積極的に福音を伝える。

イエス様の放蕩息子のたとえ話は、息子が父親に自分の相続分を要求して、父親はそれを渡す。息子はそれを使い果たして苦しい状態になったとき、「我に返った」とルカは言う。つまり、そこまで苦しみに落ちたときに悔い改める心が与えられた。父の家のしもべは十分に食べられるのに、自分はここで飢え死にしそうだという状態に気づいて、父の家に戻る決心をする。

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

これは本物の悔い改めの心である。父親は遠いところから息子を見つけて、駆け寄って首を抱いて口づけした。羊を探す羊飼いのように、コインを探す女性のように、父親は息子が戻ることを期待して望んで信じて待っていた。この時代は大人の男性は走るのはカッコ悪いこととされていた。品がないことだった。だからこの父が走ってきたのは愛を表している。ダビデが心の中で悔い改めることを決心した瞬間に神が赦してくださったように、息子がまだ一言も発しないうちに喜んで罪を赦す父親の姿がここにある。

『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

みなさん、気づいていると思うが、息子はしもべの一人にしてもらおうとして帰って来たのに、息子はその言葉をまだ最後まで言い終わっていない。言うことが出来なかった。息子が言い終わる前に父親が『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』としもべたちに言ったからだ。衣を着せるのは愛する息子のしるしである。指輪も同じで公然と息子であることを宣言している。靴も同じである。新しい服を着せて、公然と私の愛する子と宣言して、一番良い子牛を屠ってお祝いをした。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。 

これは私たちが罪を悔い改めたときに、天の父が感動して喜んで罪を赦してくださる姿である。

一方、兄息子はパリサイ人や律法学者たちと同じように怒っている。どうしてこのように赦してお祝いするのかわからなかった。この兄息子は宴会にも出なかった。

父親は兄息子に説明して、「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」と言う。

しかしパリサイ人や律法学者たちは、イエス様が十字架上で死んでよみがえって、AD70年になるまで悔い改めることはなかった。

この放蕩息子のたとえ話を見るとき、神様がどんなに深い心で罪人をあわれみ、私たちを受け入れてくださるかを繰り返し思い出す。

私たちは礼拝の初めに罪の悔い改めを行う。神様がこのようにあわれむ心を持っているお方であることを覚えるなら、私たちももっと深い心で罪を告白できる。毎週、私たちがダビデのことばを借りて罪の告白をするときに、私はちょっとだけ間違えたが基本的には良い人間である、という思いで悔い改めをしているはずはない。私たちはしてはならないことをし、しなければならないことをせず、多くの罪を犯している。私たちの天の父は私たちを喜んで受け入れてくださるが、それを軽く考えるのではなく、むしろ深く喜んで感謝する。


だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

完全に罪から解放されて、神様と和解させてくださった。神様との関係は平和になった。キリストが代わりにさばかれたので、私たちの罪はもうさばかれない。だから私たちは、キリストの代わりに人々に神様と和解してくださいと伝えるのである。私たちのためにイエス様が罪の定めを負ってくださったので、感謝の心をもってほかの罪人をあわれむ。罪人を招き、福音を伝えたいと思ったマタイはイエス様の心を知っている。パウロも神のあわれみの心を知っているので福音を伝えたいという思いが大きかった。

地域教会として、本当の意味で罪を悔い改めて、罪が赦されたことを知って感謝するのなら、私たちはパウロのようにマタイのように福音を伝える心をもって毎日の生活を送る。人に福音を伝えて祈り求める。イエス様を知らない日本のために祈り求める。

教会員はみんな伝道者である。伝道するのは牧師だけというのではない。ひとりひとりみんなに御霊が与えられて、罪が赦されて、マタイやパウロのような心をもって福音を伝えるように励まされる聖書箇所だと思う。

そのことを覚えて、神が赦してくださったことをお祝いする食事を一緒にいただきたいと思う。




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