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「セラフィムとは何か」イザヤ6:1〜8・第一コリント15:1〜11・ルカ5:1〜11

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


イザヤ6:1〜8

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた御座についておられる主を見た。その裾が神殿に満ち、セラフィムがその上の方にに立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」

その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。

私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」

すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。

「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。

私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」

私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」



第一コリント15:1〜11

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことが無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

私は使徒のの中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。



ルカ5:1〜11

さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、ゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でもおことばですので、網を下ろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやってきて、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」

彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。



詩篇138篇

心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます。

御使いたちの前で あなたをほめ歌います。

私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し

恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。

あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。

私が呼んだその日に あなたは私に答え 私のたましいに力を与えて強くされました。

主よ 地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。

まことに 主は高くあられますが低いものを顧みてくださいます。

しかし高ぶる者を 遠くから見抜かれます。

私が苦しみの中を歩いても あなたは私を生かしてくださいます。

私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし あなたの右の手が私を救ってくださいます。

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。

主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。


今日はセラフィムとはいったい何なのかについて話そうと思います。

セラフィムは、羽があって、常に神の王座の前にいる天使です。トルコのイスタンブールに、ハギヤソフィア(アヤソフィア)というビザンチウム帝国のユスティニアヌス帝が建てた6世紀の教会があります。天井が大きなドーム型をしており、その四つの角に六つの羽がついたセラフィムが刻まれています。ヨハネは黙示録4章でその話をします。

【黙示録4:8】この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

なぜセラフィムはいつまでも言い続けられるのでしょうか。ある意味で彼らは酔っていました。しかしアルコールで酔っているのではありません。アルコールは確かに一時的に気持ちを良くさせる力はあるかもしれませんが、必ず終わりが来ます。そしてアルコールだけでは人を満たすことはできません。ペアリングで他のものも必要になります。それは食べ物だったり、友情だったり、働いた後のお祝いだったりします。それらがアルコールと一緒に作用して、一時的に私たちを満たします。しかし時間が経つと空っぽで空しくなります。空しくなったからまた満たされるためにアルコールを飲むと、今度は悪循環が始まってアルコール中毒になります。

人間の歴史がある限り、様々なものを通してアルコールを作り、ハイを求めて色々な工夫をしていました。それをやらなかった文明はありません。今だに私たちは薬物、アルコール、音楽、恋愛、スポーツ、ゲーム、仕事の成功などを通して、満たされること、安心感、自信につながってます。最終的に私たちが求めているのは、神性にあずかることなのです。神とともにいる感覚です。

しかしこれらのものを求めても物足りない場合が多いです。いくら満たされても必ず終わりが来るからです。がんばっても最終的に満たされることはありません。なぜならこれらはまことの酔いの影でしかないからです。


あなたが神の神性そのもので酔っていることを想像してみてください。これは終わりのない、意味のある完全な満たしです。生命の意味、宇宙の意味を体験することです。まるで、虹、日の出、夕日の美しさ、星雲をいちどに全部味わっている感じ、雷雨、洪水、超新星の力を一度に味わっている感じです。神の近くにて、美しさや力だけではなくて、同時に平安もあるのはどんな感じなのでしょうか。力のあるものに愛され理解されて受け入れられている完全な安心感です。初恋の相手とともにいて、一つになっている喜びと興奮です。さらに神の御前には自分一人ではなく、周りに聖徒たちと天使たちもいます。天使たちがお互いに呼び合って神をたたえているので、平安と喜びを他の人と共有している喜びもあります。


さらに、聖さ(きよさ)とともにいるとき、自分を低くしたものが天まであげられる快(こころよ)さ。善と恵みと義の源である神とともにいる快さ。これは想像できないほど素晴らしいものです。自分の経験から考えると、長く続くと退屈して楽しさが終わって快さがなくなってしまうようなものしか私たちには想像できませんが、それは私たちが影しか体験したことがないからです。


私たちは、何か素晴らしいものに出会った時、それを表現する力がなかったりします。例えば私にはオーロラを見てその美しさを筆で完全に描く能力はありませんし、カメラがあっても完全な写真を撮ることはできません。

しかし、美しいオーロラを見た時に、優れた俳句を書けて、そしてそれを素晴らしい声で唱えることや、または歌うことができれば、それは新しい要素の喜びとなります。私たちは宇宙のすべての美しさと善と栄光と聖さを一度に体験したことはありません。無限な聖さと栄光を味わったことはありません。神の顔を見たこともありません。

でも私たちがこの天使のようにできたとすれば、そしてそれを歌と踊りをとおして天地を揺るがすような声で表現することができるなら、私たちはいつまでも神の聖さと美しさをたたえることができるでしょう。


じつは御霊に満たされている人、御霊に酔っている人は、このようにふるまいます。。

【エペソ5:18〜19】また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

これは天使がやっていることです。天使はなぜ「聖なる、聖なる、聖なる」と言うのでしょうか。また聖さとは何でしょうか。聖いというとき、神のすべての特性を一言で表すことなのです。それをまとめると聖さというのです。聖さに色があるとすれば金色です。

神に近づく者はすべてにおいて聖いのです。神から出て来ることばは聖書。私たちは、聖餐、聖徒(聖人と同じ意味で聖書の中に区別はありません)、聖職、聖日などで神の聖さを表します。神を礼拝するために使う器も聖いので、聖水、聖油など、神に近いものは聖いのです。それは神が燃える火だからです。聖くないもの、汚れたものを燃えつくす火だからです。それに近づけば、聖くないものをすべて燃やし尽くす火だからです。それで神の近くにあるものはすべて聖いのです。

だから天を垣間見たとき、神の王座の前に祭壇があって、その上で火が燃えています。神の前にいつも火があるのです。そして自分もその神に近づいたときに、自分の中の汚れた部分が燃え始めます。そして熱くなって火の中にある殻のように燃え尽きます。だからイザヤも「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と言いました。

神に近づいて神の顔を見ると罪が燃えて熱くなるので、私たちは自分の罪を意識し始めます。イザヤも自分が燃え尽きて滅びると感じるくらい自分の罪を意識していました。しかしじつは神の祭壇の燃える炭が唇に触れたとき、罪悪が取り除かれて、聖い自分がそこに立っているのです。聖くなって、聖別された者として、神様はイザヤを受け入れて送り出します。だから常に神殿に火がついている祭壇があるのです。

祭壇というのは食卓です。神にささげるものを神の食卓におく、それが祭壇です。教会に、歴史的なある時期に、この祭壇はテーブルであるべきか祭壇であるべきかという論争がありました。どういう風にデザインするべきか、どういう言葉で表現すべきかで議論されてきました。でも本来はそこに区別はありません。祭壇は単純に神の食卓で、神はここで私たちとともに食事をします。それが礼拝の中心です。食べ物をささげて、食べ物を受ける場所なのです。もちろん食べ物は最終的にキリストです。これはどんな古代の宗教も同じで、祭壇は神々の食卓です。


イエスは全世界を聖めて、すべてが聖められたので、どこに建てられてもどの教会も神殿なのです。だからどの教会にも祭壇と火(キャンドルが多い)があるはずです。自分が神に近づいたときに、自分の中の汚れた殻が燃え始めます。そして自分の罪に気づきます。これがペテロに起こったことでもあります。ペテロの話と平行しています。

イエスはペテロたちにもう一度魚を捕って来なさいと言います。ペテロたちはやる意味を疑いました。疑心を持っていました。一晩中網を下ろしてもだめだったのに、真昼に捕れるわけがない。普通はそのように考えます。でもイエスが勧めるのでペテロたちは従いました。するとあまりにもたくさんの魚が捕れて、舟が沈み始めました。

ペテロは、イエスのうちに神の聖さがあることにすぐに気づいて、他の人より早く反応しました。熱い炎が近くにあると近づかないのと同じように、熱すぎて耐えられないから、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました。だからペテロは使徒として任命されました。だれよりも早く、イエスの聖さを見て反応したからです。それに気づいたら、全てを捨ててイエスについていくしかないのです。


今日私たちが読んだ聖書箇所で、神の召しについて教えられることは三つある、いや四つある。

一つ目はイザヤの召しです。イザヤの唇は汚れていましたが、祭壇の炭をとおして聖められ、神の預言者として送り出されました。

二つ目はパウロの召しです。パウロは教会を迫害するところまで罪深かったのに、イエスに出会ったパウロはだれよりも一生懸命使徒として働きました。

三つ目はペテロの召しです。ペテロはすぐに疑って罪深いのですが、キリストのうちにある聖さに出会ったときに、すべてを捨ててイエスについて行きました。

四つ目はもちろん私たちの召しです。あなたはイザヤです。あなたはパウロです。あなたはペテロです。

だから洗礼名というものがあるのです。私たちは神の御前にいます。そして本当に神に出会うなら、自分の罪を感じて悔い改めます。自分はだれよりも、自分の罪を知っています。どんなに自分の罪を秘密にしていても、自分はだれよりも自分の罪を知っています。神の御前では、自分の一番ひどい罪のことを知っている人と目が合うようなものです。そして神様は自分以上に自分のことが見えています。あなたの祈りは少ない。聖書をとおしても、世界をとおしても、神の声を十分に聞いていない。時間も力も無駄にしている。場合によっては、自分をクリスチャンとして振る舞う必要がないように、クリスチャンであることを隠す。十戒を破っている。十戒のうち、破っていないものを破りたくなる。だから私たちは神の御前に立つ者としてふさわしくありません。ぼくもそれを深く感じています。牧師として、神の名のゆえに話さなければならないし、人の罪を赦す宣言をしたり、説教をしたりしなければならないのですが、みなさんと同じように罪が多くて、足りない者です。私たちはみんなふさわしくないのに、神様が毎週私たちを呼んでくださるので、神の祭壇の前に行くことができます。私たちはそこで罪を告白して、赦されて、神の栄光をほめたたえます。私たちは毎週天と地にいる信徒たちと天使たちとともに「聖なる、聖なる、聖なるかな、万軍の神」と歌います。


そして今日も詩篇138篇を私たちの小さな声で読みました。

心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます。

御使いたちの前で あなたをほめ歌います。

私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し

恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。

この祭壇の火の前に集まっている私たちは、聖霊の火によって聖められます。そしてキリストの血が私たちの唇に触れます。なぜぶどう酒を飲むのかというと、ぶどう酒にもアルコールがあって、これも一つの影なのです。神とともにいる快よさの影です。

そして神様は、全世界を聖めるために、私たちを預言者として、証し人として送り出そうとしています。

あなたは今から人を捕る漁師になります。そのためにはまずあなたが神に出会って、神に近づいて、御霊の火に聖められなければなりません。そうすれば自分の友だち、兄弟、姉妹、子ども、親、同僚、隣にいる他人を神に引き寄せることができるのです。それが私たちの使命です。自分にはそれができないと思っているかもしれないし、それにふさわしくないと思っているかもしれません。いろいろな理由があると思います。でも神様はその理由を全部聞いています。

一晩中魚を捕っていたけど何も捕れませんでした。ーペテロ

私はコミニケーションが下手だからもっとうまい人に任せて下さい。ーモーセ

海の向こうの人を救いたくない。彼らはどうでもいい。ーヨナ

私は若すぎる。まだ子どもです。私は話すことはできません。ーエレミヤ


しかし神様はこの人たちをみんな用いています。弱い、ひびの入った器をすべてご自分の目的のために用いて、彼らをとおして真理を語って、世界を聖めています。だからあなたにもできます。やらなければいけません。

それをやろうとするときに、助けてくれるのは神の恵みです。パウロの内にあった神の恵みは私たちにも与えられて、私たちをとおして働くのです。だからその恵みが与えられるように祈ってください。

私たちはみんな人を捕る漁師として召されています。すべてを捨ててイエスに従いましょう。そうすれば、数えきれないものを神に引き寄せることができます。




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